中国,清末の同治・光緒年間(1862-1908)の最高権力者。咸豊帝の妃,同治帝の母。満州族,エホナラ氏の出。1852年(咸豊2)咸豊帝の後宮に入り,56年皇子載淳を生んだ。61年咸豊帝が死ぬと載淳が即位し,年号が祺祥と改められ,彼女は皇帝の生母として慈禧太后と尊称されたが,同年11月恭親王奕訢(えききん)と組んで宮廷クーデタを起こして先帝の寵臣を処刑し,年号を同治と改め,先帝の皇后であった慈安太后とともに垂簾聴政を始めた。慈安太后が東太后と通称されたのに対し,彼女は西太后と呼ばれた。政治の実権を握った奕訢と彼女は,曾国藩,李鴻章らの漢人官僚を操縦して,太平天国をはじめとする諸反乱を鎮圧した。75年同治帝が病死すると彼女は自分の甥にあたる4歳の載湉(さいてん)を強引に帝位につけ,光緒と年号を定め,再び東太后とともに垂簾政治を行った。国内的には洋務派と保守派の対立を利用して反対勢力の成長を防ぎ,対外的には列強に多大な利権を与えながらも中華の体面を保とうと努めた。
東太后が死に,84年(光緒10)に奕訢が失脚すると,清朝の政権は彼女一人に集中した。89年光緒帝の親政を許したが,先んじて北京西郊に別荘として頤和園(いわえん)を営み,その費用に海軍経費を流用させた。皇帝親政後も最高権力は彼女の手中にあったが,日清戦争の敗戦後,皇帝派官僚の発言力が増し,98年には変法派による政治革新が行われた。これに対し彼女は袁世凱の武力を背景に戊戌(ぼじゆつ)政変を起こして新政を失敗させ,変法派を処刑・追放し,光緒帝を幽閉して,三たび垂簾政治を始めた。1900年義和団の反乱が起こるとこれを利用して親帝的な列強に宣戦したが,8ヵ国連合軍の北京占領にあって西安に逃亡し,媚外(列強におもねる)政策に方針を転じて翌年北京議定書を結んだ。以後孫文らの革命運動を弾圧しつつ,清朝の維持存命のため,変法派の改革案をまねて立憲政治への転換を装った新政に着手したが,すでに手遅れであった。08年,光緒帝の死の翌日,3歳の溥儀(ふぎ)を次の帝位につけることを決めて病死した。
執筆者:並木 頼寿
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中国、清(しん)朝第9代の咸豊(かんぽう)帝の妃。第10代同治(どうち)帝の生母。諡(おくりな)は孝欽。清朝末期の約半世紀、事実上、中国を支配した人物。同治帝が6歳で即位すると、慈禧(じき)皇太后として、同じ咸豊帝の皇后の慈安皇太后(東太后)とともに摂政(せっしょう)となる。彼女は男勝りの性格で政治上の野心に燃え、温順な東太后を押しのけて実権を掌握。恭親王奕訢(きょうしんおうえききん)を重用し、太平天国の乱以後、内乱と外圧で動揺する清朝支配の維持に努めた。1875年同治帝の没後、強引に、甥(おい)にあたる幼い光緒(こうしょ)帝をたてて、自ら摂政となり、帝の成人後も政治上の実権を握り続けた。そのため、光緒帝は終始彼女を恐れ、彼女の承諾なしには何事もできなかった。政治的には清朝内の保守派を代表し、戊戌(ぼじゅつ)の変法(1898)を失敗させ、1900年には義和団の農民闘争を利用して列強に宣戦布告した。敗れて彼女自身も西安に避難。事件後、清朝権威の失墜するうちに光緒帝死去の翌日に没した。
[倉橋正直]
『徳齢著、太田七郎・田中克己訳「西太后に侍して」(『世界ノンフィクション全集 18』所収・1961・筑摩書房)』
1835~1908
清の咸豊(かんぽう)帝の側室で,同治(どうち)帝の生母。葉赫納拉(エホナラ)氏の出身。慈禧(じき)太后ともいう。咸豊帝の死後,恭親王奕訢(えききん)らと結んで咸豊帝時代の指導的勢力であった鄭親(ていしん)王や粛順らの一派を一掃し,東太后とともに摂政の位についた。同治帝の死後は妹(醇親(じゅんしん)王の妃)の子を立て光緒帝とし,みずからは摂政としてますます権勢をふるうようになった。1889年,光緒帝に親政を許したが,監視を怠らず,98年光緒帝が変法に着手するとたちまちこれを弾圧して幽閉し,再び摂政の任につき,頑固な保守的排外派に動かされて義和団事件を助け,列国の侵略を招いた。事件後は従来の保守的態度を改めて諸制度の改革に努めたが,光緒帝の病死の翌日に死亡した。
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…1860年(咸豊10),英仏連合軍により焼尽。88年(光緒14),西太后が再建して頤和園と改称。1900年,義和団事件で再び破損したが,3年後に修復された。…
…趙秉釣(ちようへいきん)に警察,梁士詒(りようしい)に鉄道・銀行,楊士琦に汽船・電報,周学熙に炭鉱をやらせる,といったぐあいである。もちろん,満州貴族にもぬけめなく取りいったのであって,戊戌(ぼじゆつ)政変のさいには維新派を裏切って最高権力者西太后の寵を得た。〈内ニ親貴ト結ビ,外ニ党援ヲ樹(た)ツ〉と評されるゆえんである。…
…光緒は年号。父は道光帝の第7子醇親王奕譞(えきかん),母は西太后の妹。同治帝が嗣子なく死ぬと権勢維持をはかる西太后により,皇位継承の原則を破って数え4歳で皇帝に擁立された。…
…このとき,列強は第2次アヘン戦争をしかけるが,清朝は列強に屈服することにより,その援助を得てようやく太平天国を鎮圧したのである。 この間,清朝権力の中枢で政変が起こり,権力は西太后らの一派に帰した。1861年(咸豊11)のいわゆる辛酉(しんゆう)政変である。…
…時を経て下層階級に及び,最盛期を迎えた清代,満州人にも流行の兆しがみえて,康熙帝,乾隆帝が禁止令を出し,袁枚(えんばい),兪正燮(ゆせいしよう)ら学者が反対論を唱えたが,効を奏さなかった。その後太平天国も禁止し,清末に在華ミッション団体による廃止運動や,康有為が広東で発起した〈不裹足会〉の反対運動を機に,各地で〈天足(自然の足)会〉〈不纏足会〉が組織されたり,自ら纏足であった西太后が禁止令を発して徐々に衰えたが,なお徹底せず,民国時代にも遺風は残り,新中国成立後ようやく根絶をみた。【鈴木 健之】。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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