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西太后 せいたいこうXi-tai-hou; Hsi-t`ai-hou

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

西太后
せいたいこう
Xi-tai-hou; Hsi-t`ai-hou

[生]道光15(1835).10.10.
[没]光緒34(1908).10.22. 北京
中国,清朝,咸豊帝側室で,同治帝の生母である慈禧 (じき) 皇太后のこと。エホナラ (葉赫納喇) 氏の出身。咸豊帝の没後,同治帝が5歳で即位すると,恭親王奕 訢とはかり,クーデターで反対派を一掃,東太后とともに摂政となった。同治 13年 (1875) 同治帝が死ぬと,自分の妹の子を立てて光緒帝とし,みずから摂政となった。光緒 13 (87) 年から光緒帝の親政が始ったが,国政の実権は西太后が握り,同 24年光緒帝が立憲君主制への転換をはかると,クーデターでこれを妨害し,帝を幽閉した (→戊戌の変法 ) 。義和団の排外運動が高揚すると,自己保身のためこれを利用し,列強に宣戦を布告したが,8ヵ国連合軍の侵入を受け,敗れて西安へ逃げた。あらゆる進歩的改革に反対してきた西太后は,北京帰還後は立憲準備,実業,教育の振興などの新政を実施したが,対外的には排外政策から屈辱的外交に一転し,中国の半植民地化はますます深刻となった。革命運動,立憲運動の高揚のなかで光緒帝と相前後して死んだ。

西太后
せいたいごう

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デジタル大辞泉の解説

せい‐たいこう【西太后】

[1835~1908]中国、の咸豊(かんぽう)帝(文宗)の妃で、同治帝(穆宗)の生母。諡号(しごう)、孝欽(こうきん)。慈禧(じき)皇太后とよばれた。同治帝・光緒帝(徳宗)の摂政となって政治を独占。変法自強運動を弾圧して光緒帝を幽閉、義和団事件を利用して列強に宣戦するなど守旧派の中心となった。シー=タイホウ。

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百科事典マイペディアの解説

西太后【せいたいこう】

中国,清朝の咸豊帝の側室。懿貴(いき)妃とも。葉赫那拉(エホナラ)氏。同治帝の生母。咸豊帝の死後,恭親王らと結んで旧指導勢力を一掃し,東太后とともに1861年同治帝の摂政となる。
→関連項目頤和園醇親王奕【かん】醇親王載【ほう】

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

西太后 せいたいこう

1835-1908 清(しん)(中国)の咸豊(かんぽう)帝の妃(側室)。
道光15年生まれ。子の同治(どうち)帝,ついで甥の光緒(こうしょ)帝の摂政となり,政治の実権をにぎる。1898年変法(革新)派を弾圧,1900年には義和団の乱を扇動して列強の中国進出をまねいた。光緒帝の死の翌日,光緒34年10月22日溥儀(ふぎ)を次の皇帝ときめて死去。74歳。尊称は慈禧(じき)太后。

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世界大百科事典 第2版の解説

せいたいこう【西太后 Xī tài hòu】

1835‐1908
中国,清末の同治・光緒年間(1862‐1908)の最高権力者。咸豊帝の妃,同治帝の母。満州族,エホナラ氏の出。1852年(咸豊2)咸豊帝の後宮に入り,56年皇子載淳を生んだ。61年咸豊帝が死ぬと載淳が即位し,年号が祺祥と改められ,彼女は皇帝の生母として慈禧太后と尊称されたが,同年11月恭親王奕訢(えききん)と組んで宮廷クーデタを起こして先帝の寵臣を処刑し,年号を同治と改め,先帝の皇后であった慈安太后とともに垂簾聴政を始めた。

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大辞林 第三版の解説

せいたいこう【西太后】

1835~1908) 中国、清の咸豊かんぽう帝の妃。同治帝の生母。諡おくりなは孝欽。同治帝・光緒帝の摂政となり政権を握る。宮廷保守派の中心人物で、変法運動を弾圧し(戊戌ぼじゆつ政変)、また義和団を支持して列強に宣戦布告。

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367日誕生日大事典の解説

西太后 (せいたいこう)

生年月日:1835年11月29日
中国,清朝の咸豊帝の側室
1908年没

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世界大百科事典内の西太后の言及

【頤和園】より

…1860年(咸豊10),英仏連合軍により焼尽。88年(光緒14),西太后が再建して頤和園と改称。1900年,義和団事件で再び破損したが,3年後に修復された。…

【袁世凱】より

…趙秉釣(ちようへいきん)に警察,梁士詒(りようしい)に鉄道・銀行,楊士琦に汽船・電報,周学熙に炭鉱をやらせる,といったぐあいである。もちろん,満州貴族にもぬけめなく取りいったのであって,戊戌(ぼじゆつ)政変のさいには維新派を裏切って最高権力者西太后の寵を得た。〈内ニ親貴ト結ビ,外ニ党援ヲ樹(た)ツ〉と評されるゆえんである。…

【光緒帝】より

…光緒は年号。父は道光帝の第7子醇親王奕譞(えきかん),母は西太后の妹。同治帝が嗣子なく死ぬと権勢維持をはかる西太后により,皇位継承の原則を破って数え4歳で皇帝に擁立された。…

【清】より

…このとき,列強は第2次アヘン戦争をしかけるが,清朝は列強に屈服することにより,その援助を得てようやく太平天国を鎮圧したのである。 この間,清朝権力の中枢で政変が起こり,権力は西太后らの一派に帰した。1861年(咸豊11)のいわゆる辛酉(しんゆう)政変である。…

【纏足】より

…時を経て下層階級に及び,最盛期を迎えた清代,満州人にも流行の兆しがみえて,康熙帝,乾隆帝が禁止令を出し,袁枚(えんばい),兪正燮(ゆせいしよう)ら学者が反対論を唱えたが,効を奏さなかった。その後太平天国も禁止し,清末に在華ミッション団体による廃止運動や,康有為が広東で発起した〈不裹足会〉の反対運動を機に,各地で〈天足(自然の足)会〉〈不纏足会〉が組織されたり,自ら纏足であった西太后が禁止令を発して徐々に衰えたが,なお徹底せず,民国時代にも遺風は残り,新中国成立後ようやく根絶をみた。【鈴木 健之】。…

※「西太后」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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