中国,近代の革命団体である中国同盟会の機関誌。華興会の宋教仁が主宰していた《二十世紀之支那》(1905年6月創刊,2号まで)を継承したもので,1905年11月に日本で創刊,編集所は東京市牛込区(現,新宿区)新小川町においた。当初月刊であったが,のち不定期刊となり,08年に24号を刊行したのち,日本政府の弾圧によって停刊となった。胡漢民,張継,陶成章,章炳麟,汪精衛等が編集長をつとめ,革命理論の宣伝にきわめて重要な役割を果たした。とくに,梁啓超らの《新民叢報》が,列強による分割を誘発するとして革命に反対したのに対して,革命によって分割に抗するとの理論を明らかにした。孫文の三民主義とくに民生主義の理論も,《民報》誌上の《新民叢報》との論戦で,深化され,宣伝された。中国最初のマルクス主義紹介の論文も掲載した。中国本土や台湾で復刻本があり,容易に読むことができる。
執筆者:久保田 文次
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中国、清(しん)末の中国同盟会の機関誌。1905年11月、日本の東京で創刊。月刊。毎号120~180ページ、発行部数は4~5万部。8年冬、日本政府の命令により停刊となり、10年初めにさらに2号分を秘密出版して終刊となった。全部で26号。別に『天討』などの臨時増刊がある。おもな執筆者は、胡漢民(こかんみん)、汪兆銘(おうちょうめい)、陳天華(ちんてんか)、朱執信(しゅしっしん)、宋教仁(そうきょうじん)、章炳麟(しょうへいりん)ら。孫文が有名な三民主義を初めて発表したのも、この創刊号においてであった。『民報』は民主共和の思想を宣伝する革命派の機関誌として大きな影響をもち、留学生、華僑(かきょう)に広く読まれただけでなく、中国内地にも盛んに密輸入された。また、康有為(こうゆうい)、梁啓超(りょうけいちょう)らの改良派が発行する『新民叢報(そうほう)』と激烈な論戦を戦わすことによって革命の主導権を奪うことに成功した。
[倉橋正直]
夕刊紙。日本敗戦直後の1945年(昭和20)11月30日(12月1日付け)、松本重治(しげはる)、長島又男、栗林農夫(くりばやしたみお)ら旧同盟通信社員が中心になって創刊した。民主主義革命をうたった小型(タブロイド半載)で特異な新聞だった。47年8月1日『東京民報』と改題、民主統一戦線を叫ぶ政治新聞から一般大衆新聞に切り替えたが、部数減もあって経営は苦しく、満3年目の48年11月30日号で廃刊した。
[春原昭彦]
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清末,中国同盟会の月刊の機関誌。1905年11月創刊から10年10月の26号まで継続。日本の東京で刊行され,留学生の間で最も読まれたが,中国へも盛んに密輸入され,革命思想の普及に効果をあげた。
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…綱領は〈駆除韃虜,復中華,創立民国,平均地権〉(四綱)で,別の言い方では民族・民権・民生の三大主義である(のちに三民主義とよばれる)。機関誌は《民報》(1905年11月~10年2月),最初,孫文の弟子の汪兆銘,胡漢民,朱執信らが健筆をふるった。反満共和のするどい主張は,ながらく進歩的言論界を牛耳ってきた《新民叢報》に代表される改良主義の論調を圧倒した。…
…1900年早稲田大学に留学し,この間,下田歌子らと興亜会を組織したり,留学生会館の総幹事をつとめた。05年中国同盟会に加入し《民報》主編となり,08年パリで《新世紀》を発刊。辛亥革命で帰国し,13年参議院議長,第二革命後日本に亡命した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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