施薬院全宗(読み)やくいんぜんそう

改訂新版 世界大百科事典 「施薬院全宗」の意味・わかりやすい解説

施薬院全宗 (やくいんぜんそう)
生没年:1526-99(大永6-慶長4)

安土桃山時代の医師。〈せやくいんぜんそう〉ともいう。本姓丹波氏。丹波康頼子孫という。近江国甲賀郡の出身。徳運軒と号した。幼時父を失い僧籍に入り,比叡山薬樹院住持となったが,織田信長の比叡山焼打ちに続き豊臣秀吉にもその意図があると聞き,叡山を守るため還俗して曲直瀬道三の門に入り医学を修め秀吉の侍医となり,叡山の弁護に当たったという。秀吉の天下統一後,大飢饉と疫病流行にみまわれた1585年(天正13),廃絶の公的施薬院の復活を願い出て許され,復活した。施薬院使に補せられた全宗は,百日施薬すること2回に及び救療活動を再開し,天正年間,後陽成天皇の命により医薬を献じて正四位法印に叙せられ昇殿を許された。代々施薬院使を世襲したので,子孫は施薬院を姓とした。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「施薬院全宗」の意味・わかりやすい解説

施薬院全宗
せやくいんぜんそう

[生]享禄1(1528).近江
[没]慶長1(1596).12.10. 京都
安土桃山時代の天台僧,医者。もと丹波氏。徳運軒と号した。幼時出家して横川にのぼり天台教学を学んだ。元亀2 (1571) 年織田信長の延暦寺焼打ちののち,還俗して医者となった。豊臣秀吉に重用され,大医院となり,正四位に叙せられ,再び僧侶となり,法印となった。比叡山の復興を志し,秀吉の援助を得て,戒壇院その他の諸院坊を再建した。薬樹院に住して 3000石を与えられ,朝野に尊崇厚く,浄業を修した。慶長1 (96) 年9月秀吉の朝鮮再征の導火線となった明の国書のなかに,秀吉を日本国王とし,全宗を都督に封じるとあるのは,全宗の当代の評価を示している。 (→施薬院 )

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「施薬院全宗」の解説

施薬院全宗 せやくいん-ぜんそう

1526-1600* 戦国-織豊時代の医師。
大永(たいえい)6年生まれ。名医丹波氏の子孫。比叡山(ひえいざん)薬樹院の僧だったが,還俗(げんぞく)し,曲直瀬正盛(まなせ-しょうせい)に医術をまなぶ。豊臣秀吉につかえ,朝廷より施薬院使(長官)に任じられ,姓を施薬院とあらためた。慶長4年12月10日死去。74歳。近江(おうみ)(滋賀県)出身。号は徳運軒。姓は「やくいん」ともよむ。

施薬院全宗 やくいん-ぜんそう

せやくいん-ぜんそう

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世界大百科事典(旧版)内の施薬院全宗の言及

【施薬院全宗】より

…安土桃山時代の医師。〈せやくいんぜんそう〉ともいう。本姓丹波氏。丹波康頼の子孫という。近江国甲賀郡の出身。徳運軒と号した。幼時父を失い僧籍に入り,比叡山薬樹院住持となったが,織田信長の比叡山焼打ちに続き豊臣秀吉にもその意図があると聞き,叡山を守るため還俗して曲直瀬道三の門に入り医学を修め秀吉の侍医となり,叡山の弁護に当たったという。秀吉の天下統一後,大飢饉と疫病流行にみまわれた1585年(天正13),廃絶の公的施薬院の復活を願い出て許され,復活した。…

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