石屋町(読み)いしやちよう

日本歴史地名大系 「石屋町」の解説

石屋町
いしやちよう

紙子屋かみこや町の東で丹波橋たんばばし通の北に位置する片側町新町しんまち十一町目の西裏にあたり、「豊公伏見城ノ図」では、布施屋新介の屋敷地の一部となっている。町人身分で伏見城下町に、このような屋敷を与えられたものはないので、布施谷新介(助)の誤記とも考えられる。この地は早く荒廃し、藪地となってしまったらしく、寛文一〇年(一六七〇)山城国伏見街衢並近郊図によっても、紙子屋町と石屋町の間を南北に分断する道路はなく、南の方から北上してくるこの道筋も丹波橋通で突当る。同図では、丹波橋通に面した北側の若干の部分が町家地となっており、その町家の北裏には法華宗本成ほんじよう寺が描かれている。

石屋町
いしやちよう

[現在地名]堺市中之なかの西にし一丁

中之町の西、中浜なかはま筋を挟む両側町。大永三年(一五二三)一二月吉日付念仏寺供料等寄進目録(開口神社文書)町名がみえ、福乗院尭雅が石屋町地子年中二貫文を念仏ねんぶつ寺に寄進している。また当町経師屋石部了冊は天正二年(一五七四)「四体千字文」、同一八年「節用集」を出版している(堺市史)

石屋町
いしやちよう

中京区木屋町通三条下ル東入

町の西側を高瀬たかせ川、東側をかも川が南流し、三条さんじよう通の南に位置。

町名は、筆描図系では、寛文末洛中洛外大図に「石や町」とみえる。木版図系では、寛文五年(一六六五)刊「京雀」は「こりき町」、元禄九年(一六九六)京大絵図は「木や町」、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」は、「石屋町」とある。「坊目誌」は「開発の頃水運に依り石材を持ち来り販売せしもの居住せしより町称とす」という。

石屋町
いしやちよう

中京区丸太町通寺町西入

東西に通る丸太町まるたまち(旧春日小路)北面する片側町。

平安京条坊では東京極大路上に位置し、平安中期以降は春日東京極大路の南にあたる。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「石屋丁」とあり、それ以降変化はない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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