日和田村(読み)ひわだむら

日本歴史地名大系 「日和田村」の解説

日和田村
ひわだむら

[現在地名]郡山市日和田町

阿武隈川西岸の平地と河岸段丘に立地。同川支流藤田ふじた川が南部を東流。南は八山田やつやまだ村。近世以前には部谷田へやだ部屋田へやだ部和田へわだ辺和田へわだ戸谷田へやだ比谷田ひやだとも書かれた。江戸時代には奥州道中の宿駅で、水戸街道長沼ながぬま宿(現岩瀬村)への道が分岐する。

観応三年(一三五二)一一月二二日の吉良貞家挙状(相馬文書)に「安積郡部谷田陣」とみえ、田村庄にいた南朝方攻撃のため当地に陣を置いた吉良貞家のもとへ相馬親胤の子胤頼が馳せ参じている。この「部谷田陣」に大将吉良貞家が陣を置いたのは四月から六月に及んだと思われ、この間に伊賀盛光代官藤光・光長、国魂隆秀、佐原宗連らが加わり、とくに石河兼光一族は「部屋田城」を宿直警固したという(文和二年五月日「石河兼光軍忠状」遠藤白川文書など)。応永一一年(一四〇四)七月日の仙道諸家一揆傘連判(有造館本結城古文書写)に署名する「社谷田沙弥慶勝」の「社谷田」は部谷田と考えられる。同二〇年六月二五日、長沼義秀は嫡子満秀に譲った部谷田地頭職ほかを、満秀が早死したため満秀の子亀若丸に譲り直している(「長沼義秀譲状」皆川文書)。永享一一年(一四三九)頃のものと推定される安積三郷田地注文(相殿八幡文書)に中郷のうち「中谷田四丁」とみえ、当地に比定される。永禄二年(一五五九)大槻伊東氏の家臣佐柄氏らが田村隆顕に通じて大槻おおつき城を乗っ取ったため、蘆名盛氏がこれを奪い返し、次いで「ひわた」に進出している(塔寺八幡宮長帳)。天正一六年(一五八八)蘆名・佐竹両氏連合軍と伊達・田村両氏との郡山合戦後、石川昭光らの仲介で当地は伊達氏領となった(七月一六日「石川昭光覚書」伊達家文書)

日和田村
ひわだむら

[現在地名]高根村日和田

東のかまヶ峰(二一二一・一メートル)から長峰ながみね(標高一五〇二メートル)へ延びる連山の尾根で信州と境し、西を日和田川が曲折して北西流し、同川沿いの標高一二〇〇―一三〇〇メートルの高原に集落がある。高地でありながら信飛の交通の要地にあり、また日照時間が比較的長かったため早くから発達したと思われる。小日和田こひわだ村を含む地域には、中世に集落が発生したとも推定できる牧垣内まきがいとう東垣内ひがしがいとう下垣内しもがいとうなどの字地がある。集落北方のうしろ峠を越える道は古くから利用されていたが、金森氏時代になって江戸行の本街道(福島街道)になった。

日和田村
ひわだむら

[現在地名]寒河江市日和田

箕輪みのわ村の西、山の南東麓に位置し、西は慈恩じおん寺の所在する醍醐だいごに続く。中世には檜皮とも記し、慈恩寺領があり寒河江庄(北方)に属した。明徳元年(一三九〇)一〇月二三日の佐藤松代丸坊地売券写(宝林坊文書)によると、「北寒河江檜皮住人佐藤松代丸」が醍醐鬼越おにごえにある坊地一宇を二一貫文で宝林ほうりん坊に売却している。慈恩寺領は最上氏にも安堵された(慶長五年九月二一日「最上義光願文」工藤文書)

日和田村
ひわだむら

[現在地名]網野町字日和田

岡田おかだ村の南、切畑きりはた村の西に位置し、南は熊野郡に接する。四周を山に囲まれ、谷間の水流は熊野郡に流れ込んで佐濃谷さのだに川の支流佐内そうち川となる。

延宝三年郷村帳に「木津庄 日和田分」とみえる。その後分離・高付されたとみえ、天和元年宮津領村高帳に一二四・七四石「日和田村」と記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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