日根庄(読み)ひねのしよう

日本歴史地名大系 「日根庄」の解説

日根庄
ひねのしよう

現泉佐野市域のうち、北西部を除く広い地域にあった九条家領庄園。日根野庄とも書かれた。庄名は文暦元年(一二三四)一一月一三日の六波羅探題御教書案(九条家文書)に「和泉国日根庄」とみえる。「大殿(九条道家)領可被立券云々」とあって、この年九条家領として立券された。この立券までの経過は天福二年(一二三四)六月二五日の官宣旨(同文書)によると、もと当地は東北院領長滝ながたき庄の東部から北東にかけての荒野で、元久二年(一二〇五)高野山の鑁阿が、貞応元年(一二二二)にも同じく高野山の寺僧が開発を企てた地であったが、用水路をめぐり長滝庄との間で折合いがつかずいずれも中止されている。九条道家が当地の開発を企てたのは、そうしたことのあったあと、天福二年のことである。当時の長滝庄や当地禅興ぜんこう寺の本所が道家の子教実であり、また禅興寺の領家三井寺長吏が近衛基通の子円忠であった関係から企てが進み、円忠が避文を出し、道家の申請で官宣旨が下され当庄が成立した。この時の庄域は東が葛木かつらぎ峯、南は於雄おお(現泉南市)、西は海、北は甲斐田かいだ(現在の見出川か)を限る広大な範囲にわたったが、庄域内にある長滝庄・禅興寺領、奈良元興がんごう寺領などの諸庄領、奈良春日社などの給免田国衙領の現作地は除かれた(同文書)。立庄と同時に検注も実施され、文暦元年一二月二日の日根庄諸村田畠在家等注文案(同文書)が残る。同注文案は前欠で当庄全域の詳細は不明だが、鶴原つるはら村・井原いはら村・入山田いりやまだ村・日根野ひねの村の四ヵ村で構成されており、官使・国使とともに四ヵ村それぞれの公文・下司・地頭代など庄官が署名している。建長二年(一二五〇)一一月、九条道家は当庄以下三五ヵ庄を嫡孫忠家に譲った(「九条道家初度惣処分状」同文書)

南北朝時代活躍する日根野氏(中原氏)は長滝庄包富かねとみ方の下司であったが、鎌倉時代後期には当庄域にも勢力を伸ばしており、九条家は文永三年(一二六六)中原盛経を井原村預所職に(同年四月日「日根庄領家下文」日根文書)、同九年には同人を入山田村預所職に補任している(同年七月一八日「日根庄領家下文」同文書)。建治三年(一二七七)九月二九日付で春日社は日根庄雑掌慈蓮およびその子盛経らが庄内にあった同社の末社や神人に対して乱暴狼藉を働いたとして国内から追放するよう和泉国内の神人に下文を下している(「中臣祐賢記」同年一〇月一日条)。しかしこの目的は達せられなかったようで、翌年七月慈蓮に雑掌を安堵するため神人を下向させている(弘安元年七月九日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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