日本歴史地名大系 「早島村」の解説 早島村はやしまむら 岡山県:都窪郡早島町早島村[現在地名]早島町早島・若宮(わかみや)現町域の中央部を占め、金毘羅(こんぴら)往来が通る。かつてこの地が瀬戸の入海であったとき島であった小丘陵の周囲に、無津(むづ)・市場(いちば)・塩津(しおつ)・頓行(とよく)・長津(ながつ)・塩地(しおじ)の六村と、小丘陵の北に横たわる備南(びなん)台地の南側に金弾(かんだ)、中帯江(なかおびえ)(現倉敷市)の集落ができ、それらを総称して早島村といった。「備中誌」には「古早島村は高少し計にて今の頃の平地の畑皆古田也。宇喜多の新開をして六ケ村とは成ぬ。古深井郷の外の地也」と記され、宇喜多開墾以後に開発された村であることがわかる。近世初頭までは小丘陵の前面は干潟や葦原で、現在の町通りよりは北側丘陵地の上にそれぞれの集落があった。無津・塩津・長津は港のあった所であり、市場には魚市場が置かれ、市場字小浜(おぼう)、前潟の舟本(まえがたのふなもと)は漁船の停泊地であった。市場は当初堤(どて)と称したという。中世は隼島(はやしま)庄として推移。慶長四年(一五九九)宇喜多秀家が当地一〇〇石を難波助右衛門へ加増している(「宇喜多秀家黒印状」難波文書)。翌五年宇喜多氏滅亡後、庭瀬藩戸川氏領となる(寛政重修諸家譜)。同一九年と思われる戸川逵安触状(佐藤文書)に早島村とあり、無津・いちば・しほち・長津の名もみえる。なお応永三三年(一四二六)正月の吉備津宮正殿遷宮次第に「塩津神人」がみえ、慶長八年の御幣串朱書銘には、施主として「山南早島塩津村」の住人安原田兵衛尉・草壁朝臣知種の名がある。さらに吉備津神社の御釜殿再建棟札写・正宮上葺棟札写(以上吉備津神社文書)にも、早島住人として二人の名がみえ、両名らは石見(いわみ)銀山(現島根県大田市)の採掘にもかかわっていた(銀山旧記)。寛永五年(一六二八)戸川逵安は三男内蔵助安尤に都宇(つう)郡のうち三千四〇〇石を分知(寛政重修諸家譜)、当村に陣屋が置かれた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by