改訂新版 世界大百科事典 「明石人」の意味・わかりやすい解説
明石人 (あかしじん)
1931年,兵庫県明石市大久保町西八木にある海岸の崖から,直良(なおら)信夫によって発見されたヒトの左寛骨。明石原人ともいわれた。直良は更新世に遡る可能性があると考えたが,当時の人類学と考古学の専門家は賛成しなかった,あるいは無視した。この寛骨は,東京の中野にあった直良の自宅に保管されていたが,第二次大戦中に空襲によって焼失した。
1947年になって,東京大学の長谷部言人は,偶然,人類学教室に保管されていた寛骨の石膏模型を見て,原人の可能性があると考え,ニッポナントロプス・アカシエンシスNipponanthropus akashiensisと命名した。長谷部は出土地点の近くを大々的に発掘調査したが,人骨は発見されず,地層は化石の保存に適さないことがわかり,専門家の間では批判的意見がくすぶっていた。その後,猿人や原人の寛骨が発見されるのを待って,82年遠藤萬里と馬場悠男は石膏模型の形態を比較分析した結果,明石寛骨では,猿人や原人のように腸骨翼が広く外側に傾くことはなく,新人のように腸骨翼が狭く直立することを示し,しかも現代人的な諸特徴が多いと発表した。この結果は,わずかの見当違いな批判はあるが,専門家の間では完全に受け入れられている。
明石人に関しては,専門家の冷淡な態度によりアマチュア研究者である直良が理不尽な扱いを受けたことが強調されるが,それだけでなく,当時は,東京大学人類学教室の松村瞭たち専門家も判断が着かなかったというのが本当だろう。むしろ,長谷部が充分な比較試料のない状況にもかかわらず原人であると判断したことは,日本においても北京原人に匹敵する原人の存在を望むような当時のナショナリズムに影響されたとはいえ,学術的慎重さが足りなかったというべきだろう。
執筆者:馬場 悠男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報