日本歴史地名大系 「明里村」の解説 明里村あかりむら 福井県:福井市旧足羽郡地区明里村[現在地名]福井市光陽(こうよう)一―四丁目福井城下に西隣し、足羽川北岸に沿う。西は菅谷(すがや)村、北は境(さかい)村。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では北庄下(きたのしようしも)郷(高四二一〇・一八石)に含まれる。正保郷帳に村名がみえ、田方五四五石余・畠方一四七石余。福井藩領。村の東方、城下町続きの足羽川岸に福井藩の米蔵があった。「国事叢記」の慶安二年(一六四九)の記事に「足羽郡明里村御米蔵立」とみえる。足羽・吉田両郡を中心とする広範な福井藩領から舟運を利用して年貢米が運ばれた。御蔵敷地約三千坪に米蔵三四棟が並び六万俵の米が収納できた。付属施設としては蔵奉行の役宅のほか、年貢滞納村の庄屋を完納するまで入牢させた牢屋もあった。 明里村あかりむら 熊本県:阿蘇郡小国町明里村[現在地名]小国町西里(にしざと)北里(きたざと)川と(はげ)川に挟まれ、標高約四六〇メートル。南は北里村、西は下城(しものじよう)村に接する。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)に「一所あかりさつしやう」とあり、初穂米収納使に酒饌を提供するため、初穂米は免除された。近世は北里手永に属し、元禄一二年(一六九九)の北里手永高反別帳では、下明里村は萩原(はぎわら)村のうちとされ、高一二二石余・田四町八反三畝余・畑五町五反二畝余とあるが、上明里村の名はみえない。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by