日本大百科全書(ニッポニカ) 「星野恒」の意味・わかりやすい解説
星野恒
ほしのひさし
(1839―1917)
明治・大正期の考証的歴史学者、漢学者。天保(てんぽう)10年7月7日、越後(えちご)国蒲原(かんばら)郡白根町(現、新潟市南区)の農家星野嘉之助(かのすけ)の長男として生まれる。名は世恒、字(あざな)は徳夫(のりお)、通称は恒太郎(ひろたろう)(のち恒と改名)。豊城(ほうじょう)と号す。幼年より漢籍を学び、1859年(安政6)江戸に出て儒者塩谷宕陰(しおのやとういん)の学僕となり、69年(明治2)より越後の水原町(現、阿賀野(あがの)市)の弘業館(のち水原小学校)で教えた。75年にふたたび上京し、太政官(だじょうかん)修史館(のち修史局)に出仕、『大日本編年史』の編纂(へんさん)に従事した。88年修史局の仕事が帝国大学に移るとともに、文科大学臨時編年史編纂係となり、重野安繹(しげのやすつぐ)、久米邦武(くめくにたけ)らとその中心となり、ともに文科大学教授をも兼ねた。その間、史料の全国的調査に着手し、また国史学(ついで漢文学)の講座も担当、厳密な考証学風の中心となった。91年文学博士となる。久米事件のあとの史料編纂掛としての再出発にあたっては、田中義成(よしなり)と協力して『大日本史料』『大日本古文書』刊行の基礎を置いた。1906年帝国学士院会員となる。大正6年9月10日死去。
[松島榮一]
『『明治文学全集 明治史論集Ⅱ』(1976・筑摩書房)』