明治・大正期の歴史学者。佐賀藩出身。久米邦郷と妻和嘉子の三男。幼名は泰次郎,のち丈一郎,丈市といい,号は易堂。1854年(安政1)藩校弘道館に入り,大隈八太郎(重信)と知り,終生の交友を保った。62年(文久2)江戸の昌平坂学問所の書生寮に入寮したが,1年後に退寮帰藩,藩主鍋島直正(閑叟)の近習となる。68年(明治1)弘道館教諭,翌年佐賀県権大属,71年大属。その年,権少外史となり岩倉使節団に参加,73年帰国後は太政官外史記録課長,大使事務局書類取調御用等を歴任して,78年少書記官。この年,使節団の公式報告書《特命全権大使米欧回覧実記》を編集・刊行した。久米の処女作である。79年から修史館(のち臨時修史局)の編修官となり,88年臨時修史局の帝国大学移管により文科大学教授となり,新設された国史科で重野安繹,星野恒らと講座を担当した。彼らの学風は,清朝考証学派風の影響のうえに,L.リースらから学んだ近代実証史学の方法をもって史実を明快に確定していこうとしたもので,水戸の《大日本史》や頼山陽の《日本外史》の大義名分論的・勧善懲悪的史観の依拠した史実を批判的・否定的に考証し,世人から〈抹殺派〉史学の名をもって呼ばれた。91年,〈太平記は史学に益なし〉に続いて《史学会雑誌》に発表された〈神道は祭天の古俗〉は,田口鼎軒の挑発的紹介の仕方もあって〈神道者流〉の憤激を呼び,翌年依願免官を余儀なくされた。彼の米欧体験による合理主義的歴史解釈が,明治20年代半ばの国粋主義的風潮の強まりつつある状況下で,槍玉に挙げられたのである。99年以後は東京専門学校(のち早稲田大学)で国史と古文書の研究に専念し,日本古代史に関する多数の著作を刊行した。晩年は西欧文明の矛盾を説いたりした。《久米博士九十年回顧録》はその自伝的回顧録。関係文書は長子久米桂一郎の絵画等とともに久米美術館に収蔵されている。
執筆者:田中 彰
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明治・大正期の歴史学者。号は易堂(えきどう)。文学博士。天保(てんぽう)10年7月11日、佐賀藩士の子に生まれ、江戸の昌平坂(しょうへいざか)学問所に学ぶ。1871年(明治4)~73年、特命全権大使岩倉具視(いわくらともみ)の米欧視察に随行し、使節紀行纂輯(さんしゅう)専務心得を命ぜられ、『特命全権大使米欧回覧実記』全5冊(1878)を著した。ついで、修史館、臨時修史局で『大日本編年史』の編修に従事し、88年に帝国大学文科大学教授となった。『稿本国史眼』(重野安繹(しげのやすつぐ)らと共編)はその間の研究成果である。91年、論文「神道ハ祭天の古俗」を『史学会雑誌』第23~25号に発表した。これが翌年、田口卯吉(うきち)によって『史海』第8巻に転載されると、旧守的な神道家の反感を買い、ついに帝大教授非職となり、依願免官となった。以後、地方を遊歴し、地誌・史談の講演、郡誌などの校閲にあたった。99年、同郷の友大隈重信(おおくましげのぶ)の創立した東京専門学校(早稲田(わせだ)大学の前身)に講師として迎えられ、ついで教授となり、1921年(大正10)まで古文書研究・国史を担当した。昭和6年2月24日没。『古文書学講義』『上宮太子実録』『南北朝時代史』『裏日本』『国史八面観』その他多くの著書がある。
[佐藤能丸]
『永原慶二・鹿野政直編著『日本の歴史家』(1976・日本評論社)』▽『宮地正人著『天皇制の政治史的研究』(1981・校倉書房)』
明治期の歴史学者
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(山崎渾子)
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1839.7.11~1931.2.24
明治・大正期の歴史学者。佐賀藩士出身。太政官に出仕し,1871~73年(明治4~6)岩倉遣外使節団に加わり欧米を視察。記録係を務め「特命全権大使米欧回覧実記」を編纂。修史館で広く史料収集にあたり,ついで帝国大学文科大学教授兼編年史編纂掛となり,実証主義史学の発展に貢献。「史学会雑誌」に発表した「神道は祭天の古俗」が神道家の非難を浴び,92年に辞職。のち早稲田大学教授。著書「国史眼」(共著),「古文書学講義」。
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…この間,約1年10ヵ月,アメリカ,イギリス,フランス,ベルギー,オランダ,ドイツ,ロシア,デンマーク,スウェーデン,イタリア,オーストリア,スイスの12ヵ国を回覧した(大久保,木戸は途中で帰国)。この公式報告書が,太政官少書記官久米邦武編修の《特命全権大使米欧回覧実記》(5編100巻,1878刊。岩波文庫所収)である。…
…祝祭日の学校儀式はこれを補強する有力な手段であった。〈久米邦武事件〉といわれる当時の一事件に問題点が典型的に示されている。帝国大学教授久米邦武の論文〈神道は祭天の古俗〉が91年に学術誌である《史学雑誌》に掲載されたときには,なんら社会的に問題とならなかった。…
…帝国大学教授で史誌編纂委員だった久米邦武の論文〈神道は祭天の古俗〉を掲載した〈《史学会雑誌》〉(1891年10‐12月号)と,同論文を転載した〈《史海》〉(1892年1月25日号)が,1892年(明治25)3月5日に発売頒布禁止の処分を受け,また久米が前日の3月4日に非職を命ぜられた事件。 久米は重野安繹とならんで太政官修史館における修史事業の中心的人物であり,史料収集と史料批判を基礎とした近代史学の確立のために努力し,欧米史学にも深い関心を寄せていた。…
… 明治期に入り,日本の朝鮮侵略が進むにつれて日鮮同祖論はますます重要性を増し,内容の精密化がはかられることになる。その第1の時期は日清・日露戦争によって朝鮮支配の完成がめざされる時期で,国史(日本史)の編集に併行して久米邦武らが唱えた同祖論である。このときには特に日朝の一体性に力点が置かれ,日韓併合を実現するための理論となった。…
…しかし,本居説の影響は,明治にも及び,星野恒は,新井説とは無関係に邪馬台国山門郡説を打ち出し,卑弥呼は,山門県の田油津媛の先代の人であろうと論じて,卑弥呼が神功皇后ではないことを明確にした。これを受けて,久米邦武は,邪馬台国山門郡説を支持し,〈邪馬台の考証時代は既に通過したり,今は其地を探験すべき時期に移れり〉と喝破した。 邪馬台国論争の火ぶたは,1910年に白鳥庫吉の邪馬台国九州説,内藤湖南の大和説によって切られた。…
※「久米邦武」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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