久米邦武(読み)くめくにたけ

精選版 日本国語大辞典 「久米邦武」の意味・読み・例文・類語

くめ‐くにたけ【久米邦武】

歴史学者。文博。佐賀藩出身。昌平黌(しょうへいこう)修学岩倉具視(ともみ)らの欧米視察に随行し「特命全権大使米欧回覧実記」を編纂。帝国大学文科大学教授となり、「国史眼」を編集したが、論文「神道は祭天の古俗」が筆禍にあい、辞職。古文書学をおこし、日本古代史の科学的研究を行なう。著に「古文書学講義」「上宮太子実録」など。天保一〇~昭和六年(一八三九‐一九三一

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デジタル大辞泉 「久米邦武」の意味・読み・例文・類語

くめ‐くにたけ【久米邦武】

[1839~1931]歴史学者。佐賀の生まれ。岩倉具視に従って欧米を視察。古代史の科学的研究に努めた。論文「神道は祭天の古俗」が神道家から攻撃されて東大教授を辞職。著「米欧回覧実記」「古文書学講義」など。

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改訂新版 世界大百科事典 「久米邦武」の意味・わかりやすい解説

久米邦武 (くめくにたけ)
生没年:1839-1931(天保10-昭和6)

明治・大正期の歴史学者。佐賀藩出身。久米邦郷と妻和嘉子の三男。幼名は泰次郎,のち丈一郎,丈市といい,号は易堂。1854年(安政1)藩校弘道館に入り,大隈八太郎(重信)と知り,終生の交友を保った。62年(文久2)江戸の昌平坂学問所の書生寮に入寮したが,1年後に退寮帰藩,藩主鍋島直正(閑叟)の近習となる。68年(明治1)弘道館教諭,翌年佐賀県権大属,71年大属。その年,権少外史となり岩倉使節団に参加,73年帰国後は太政官外史記録課長,大使事務局書類取調御用等を歴任して,78年少書記官。この年,使節団の公式報告書《特命全権大使米欧回覧実記》を編集・刊行した。久米の処女作である。79年から修史館(のち臨時修史局)の編修官となり,88年臨時修史局の帝国大学移管により文科大学教授となり,新設された国史科で重野安繹,星野恒らと講座を担当した。彼らの学風は,清朝考証学派風の影響のうえに,L.リースらから学んだ近代実証史学の方法をもって史実を明快に確定していこうとしたもので,水戸の《大日本史》や頼山陽の《日本外史》の大義名分論的・勧善懲悪的史観の依拠した史実を批判的・否定的に考証し,世人から〈抹殺派〉史学の名をもって呼ばれた。91年,〈太平記は史学に益なし〉に続いて《史学会雑誌》に発表された〈神道は祭天の古俗〉は,田口鼎軒の挑発的紹介の仕方もあって〈神道者流〉の憤激を呼び,翌年依願免官を余儀なくされた。彼の米欧体験による合理主義的歴史解釈が,明治20年代半ばの国粋主義的風潮の強まりつつある状況下で,槍玉に挙げられたのである。99年以後は東京専門学校(のち早稲田大学)で国史と古文書の研究に専念し,日本古代史に関する多数の著作を刊行した。晩年は西欧文明の矛盾を説いたりした。《久米博士九十年回顧録》はその自伝的回顧録。関係文書は長子久米桂一郎の絵画等とともに久米美術館に収蔵されている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「久米邦武」の意味・わかりやすい解説

久米邦武
くめくにたけ
(1839―1931)

明治・大正期の歴史学者。号は易堂(えきどう)。文学博士。天保(てんぽう)10年7月11日、佐賀藩士の子に生まれ、江戸の昌平坂(しょうへいざか)学問所に学ぶ。1871年(明治4)~73年、特命全権大使岩倉具視(いわくらともみ)の米欧視察に随行し、使節紀行纂輯(さんしゅう)専務心得を命ぜられ、『特命全権大使米欧回覧実記』全5冊(1878)を著した。ついで、修史館、臨時修史局で『大日本編年史』の編修に従事し、88年に帝国大学文科大学教授となった。『稿本国史眼』(重野安繹(しげのやすつぐ)らと共編)はその間の研究成果である。91年、論文「神道ハ祭天の古俗」を『史学会雑誌』第23~25号に発表した。これが翌年、田口卯吉(うきち)によって『史海』第8巻に転載されると、旧守的な神道家の反感を買い、ついに帝大教授非職となり、依願免官となった。以後、地方を遊歴し、地誌・史談の講演、郡誌などの校閲にあたった。99年、同郷の友大隈重信(おおくましげのぶ)の創立した東京専門学校(早稲田(わせだ)大学の前身)に講師として迎えられ、ついで教授となり、1921年(大正10)まで古文書研究・国史を担当した。昭和6年2月24日没。『古文書学講義』『上宮太子実録』『南北朝時代史』『裏日本』『国史八面観』その他多くの著書がある。

[佐藤能丸]

『永原慶二・鹿野政直編著『日本の歴史家』(1976・日本評論社)』『宮地正人著『天皇制の政治史的研究』(1981・校倉書房)』


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朝日日本歴史人物事典 「久米邦武」の解説

久米邦武

没年:昭和6.2.24(1931)
生年:天保10.7.11(1839.8.19)
日本近代史学創出をになった歴史学者。幼名は泰次郎,のちに丈一郎,丈市。号は易堂。肥前佐賀藩に生まれ,藩士久米邦郷と和嘉の3男。安政1(1854)年藩校弘道館に入り大隈重信らと学ぶ。文久3(1863)年江戸昌平坂学問所に入学,翌年退学。帰藩し藩主鍋島直正の近習となる。明治4(1871)年から6年にかけて岩倉遣外使節団に随行し,欧米12カ国を一巡,その公式報告書『特命全権大使米欧回覧実記』全100巻5編5冊刊(1878)。11年太政官の修史館に入り,重野安繹と共に『大日本編年史』を編纂,封建的史学を批判し,明治近代史学創出に尽力。13年明治天皇の巡幸に供奉,『東海東山巡幸日記』を編述。24年「神道は祭天の古俗」を『史学会雑誌』(23~25号)に発表。同論文が『史海』に転載されると神道家や国学者の反発を呼び,帝大教授を追われる。東京専門学校(早稲田大学)で23年から大正11(1922)年まで教鞭をとる。 著作は古文書学や古代・中世史を中心に近代までおよぶ。東アジア史,世界史的な広い視野を保ち,幅広い関心と合理的思考,多彩かつユニークな発想で史学のあり方を論じた。明治,大正,昭和にかけての異色の歴史家である。<著作>『久米邦武歴史著作集』全5巻・別巻,田中彰校注『特命全権大使米欧回覧実記』全5巻<参考文献>大久保利謙編『久米邦武の研究』

(山崎渾子)

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百科事典マイペディア 「久米邦武」の意味・わかりやすい解説

久米邦武【くめくにたけ】

歴史学者。佐賀藩士出身。幕末,昌平黌に学び,1871年岩倉遣外使節に随行し,帰国後《特命全権大使米欧回覧実記》を著す。修史事業に従事し,帝国大学(文科大学)の史学科開設とともに教授となる。学風は清朝考証学派や欧米近代実証史学の影響を受け,1891年に発表した論文〈《太平記》は史学に益なし〉〈神道は祭天の古俗〉が神道家などの攻撃を受け,1892年帝大を辞職。のち東京専門学校で研究,著作を続けた。
→関連項目久米桂一郎

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「久米邦武」の解説

久米邦武
くめくにたけ

1839.7.11~1931.2.24

明治・大正期の歴史学者。佐賀藩士出身。太政官に出仕し,1871~73年(明治4~6)岩倉遣外使節団に加わり欧米を視察。記録係を務め「特命全権大使米欧回覧実記」を編纂。修史館で広く史料収集にあたり,ついで帝国大学文科大学教授兼編年史編纂掛となり,実証主義史学の発展に貢献。「史学会雑誌」に発表した「神道は祭天の古俗」が神道家の非難を浴び,92年に辞職。のち早稲田大学教授。著書「国史眼」(共著),「古文書学講義」。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「久米邦武」の解説

久米邦武 くめ-くにたけ

1839-1931 明治-昭和時代前期の日本史学者。
天保(てんぽう)10年7月11日生まれ。昌平黌(しょうへいこう)にまなび,岩倉具視(ともみ)の米欧視察に随行。帰国後「米欧回覧実記」を編集。明治21年帝国大学教授。論文「神道は祭天の古俗」が保守派の攻撃をうけて25年退官し,東京専門学校(現早大)にむかえられた。昭和6年2月24日死去。93歳。肥前佐賀出身。通称は丈一郎。号は易堂。著作に「古文書学講義」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「久米邦武」の意味・わかりやすい解説

久米邦武
くめくにたけ

[生]天保10(1839).佐賀
[没]1931.2.24. 東京
明治,大正の歴史学者。昌平黌に学ぶ。明治2 (1869) 年神祇官大史兼太政官大弁となり,のち修史局に入り,国史編集に従事。 1881年東京大学教授となったが,論文『神道は祭天の古俗』が神道家の攻撃を受け,92年退官。以後早稲田大学で日本古代史,古文書学を講じる。著書『古文書学講義』『大日本時代史 (古代) 』『南北朝時代史』 (1907) など。洋画家久米桂一郎は長男。

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旺文社日本史事典 三訂版 「久米邦武」の解説

久米邦武
くめくにたけ

1839〜1931
明治・大正時代の歴史学者
肥前藩出身。1871年岩倉遣外使節に随行し,'78年に「特命全権大使米欧回覧実記」刊行。修史館に転じ「大日本編年史」編纂に従事。のち,東大教授。'91年論文「神道は祭天の古俗」の筆禍事件で東大辞職。

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世界大百科事典(旧版)内の久米邦武の言及

【岩倉使節団】より

…この間,約1年10ヵ月,アメリカ,イギリス,フランス,ベルギー,オランダ,ドイツ,ロシア,デンマーク,スウェーデン,イタリア,オーストリア,スイスの12ヵ国を回覧した(大久保,木戸は途中で帰国)。この公式報告書が,太政官少書記官久米邦武編修の《特命全権大使米欧回覧実記》(5編100巻,1878刊。岩波文庫所収)である。…

【学校】より

…祝祭日の学校儀式はこれを補強する有力な手段であった。〈久米邦武事件〉といわれる当時の一事件に問題点が典型的に示されている。帝国大学教授久米邦武の論文〈神道は祭天の古俗〉が91年に学術誌である《史学雑誌》に掲載されたときには,なんら社会的に問題とならなかった。…

【久米事件】より

…帝国大学教授で史誌編纂委員だった久米邦武の論文〈神道は祭天の古俗〉を掲載した〈《史学会雑誌》〉(1891年10‐12月号)と,同論文を転載した〈《史海》〉(1892年1月25日号)が,1892年(明治25)3月5日に発売頒布禁止の処分を受け,また久米が前日の3月4日に非職を命ぜられた事件。 久米は重野安繹とならんで太政官修史館における修史事業の中心的人物であり,史料収集と史料批判を基礎とした近代史学の確立のために努力し,欧米史学にも深い関心を寄せていた。…

【日鮮同祖論】より

… 明治期に入り,日本の朝鮮侵略が進むにつれて日鮮同祖論はますます重要性を増し,内容の精密化がはかられることになる。その第1の時期は日清・日露戦争によって朝鮮支配の完成がめざされる時期で,国史(日本史)の編集に併行して久米邦武らが唱えた同祖論である。このときには特に日朝の一体性に力点が置かれ,日韓併合を実現するための理論となった。…

【邪馬台国論争】より

…しかし,本居説の影響は,明治にも及び,星野恒は,新井説とは無関係に邪馬台国山門郡説を打ち出し,卑弥呼は,山門県の田油津媛の先代の人であろうと論じて,卑弥呼が神功皇后ではないことを明確にした。これを受けて,久米邦武は,邪馬台国山門郡説を支持し,〈邪馬台の考証時代は既に通過したり,今は其地を探験すべき時期に移れり〉と喝破した。 邪馬台国論争の火ぶたは,1910年に白鳥庫吉の邪馬台国九州説,内藤湖南の大和説によって切られた。…

※「久米邦武」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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