重野安繹(読み)シゲノヤスツグ

デジタル大辞泉 「重野安繹」の意味・読み・例文・類語

しげの‐やすつぐ【重野安繹】

[1827~1910]幕末・明治期の歴史学者。薩摩さつまの人。号、成斎。藩校造士館、江戸昌平黌しょうへいこうに学んだ。文部省修史局員・東大教授・元老院議官貴族院議員などを歴任。東大に国史科を設置実証主義に基づく史学の基礎を築いた。著「稿本国史眼」「国史綜覧藁」など。

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精選版 日本国語大辞典 「重野安繹」の意味・読み・例文・類語

しげの‐やすつぐ【重野安繹】

江戸末・明治初期の歴史学者。鹿児島出身。藩校造士館に学び、のち江戸昌平黌(しょうへいこう)にはいる。帝国大学教授、臨時編年史編纂掛委員長、貴族院議員などを歴任。修史に従事。また、東大に国史科を置いた。主著「国史眼」「国史綜覧稿」など。文政一〇~明治四三年(一八二七‐一九一〇

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朝日日本歴史人物事典 「重野安繹」の解説

重野安繹

没年:明治43.12.6(1910)
生年:文政10.10.6(1827.11.24)
明治時代の漢学者,歴史家。文学博士。号成斎。薩摩国鹿児島郡阪元村上町(鹿児島市坂元町)に生まれ,東京の市ケ谷に没。嘉永1(1848)年,昌平黌に藩費留学し,造士館訓導師になるが,安政4(1857)年奄美大島へ流刑になった。文久3(1863)年薩英戦争に参加し,島津久光の命令により,慶応1(1865)年『皇朝世鑑』を編纂した。新政府では,大久保利通の系統に属して,明治8(1875)年太政官修史局副長になり,これより官制の変更はあったが,一貫して史料の収集,志類・『史料稿本』・『大日本編年史』の編纂を指揮して,26年に辞めた。この間,11年には東京学士会院(のちの帝国学士院)の幹事会員になり,しばしば演説して,漢学と史学の興起を提唱した。23年貴族院議員になり,外山正一と連名で帝国図書館の官制案を建議する。 明治21年から24年および31年から34年の間は,帝大文科大学(のち東京帝大)教授に在職,国史科(のちに国史学科)の創設にかかわり,お雇い外国人教師リースの教示により,史学会を創立,機関紙『史学会雑誌』を経営して,国史学を旧来の経学から自立させ,江戸幕府の修史事業の成果を発展させて,考証史学の充実に尽力した。『大日本史』の学風を克服し,児島高徳楠木正成父子決別の史話を否定したので,「抹殺博士」と称された。40年,81歳で学士院から6カ月にわたりウィーンに出張し,欧州に遊び,シベリア経由で清国の学界と交流した。人となりは寛緩,儀容が端正で,若いころから育英に長じ,統率に優れた。仕舞,書道をよくする。<著作>『万国公法』『編年日本外史』『赤穂義士実話』,久米邦武星野恒と共著『稿本国史眼』,『大日本維新史』『国史綜覧稿』『成斎文初集』『成斎文二集』,小牧昌業と共著『薩藩史談集』,薩藩史研究会『重野博士史学論文集』<参考文献>大久保利謙『日本近代史学史』,東京帝国大学『東京帝国大学学術大観』,坂本太郎『日本の修史と史学』,辻善之助先生誕生百年記念会編『辻善之助博士自歴年譜稿』,大久保利謙『大久保利謙歴史著作集』7巻,『史学会百年小史』,田中彰宮地正人『歴史認識』

(秋元信英)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「重野安繹」の意味・わかりやすい解説

重野安繹
しげのやすつぐ
(1827―1910)

明治期の歴史学者、漢学者。文政(ぶんせい)10年10月6日、薩摩(さつま)国坂元村(鹿児島市坂元町)で生まれる。安繹は諱(いみな)。幼名厚之丞(あつのじょう)、字(あざな)は子徳(しとく)。号は成齋(せいさい)、ほかに隼洲(しゅんしゅう)・未齋(みさい)とも称す。藩校造士館より、江戸の昌平黌(しょうへいこう)に学ぶ。1864年(元治1)造士館助教になり、71年(明治4)上京し、文部省に出仕。翌年太政官(だじょうかん)に転じ、修史局(修史館)の中心となって、『大日本編年史』の編纂(へんさん)の準備に従う。同僚には星野恒(ひさし)、久米邦武(くめくにたけ)がいた。その間、イギリスに赴く末松謙澄(すえまつけんちょう)に史学方法論の調査を依頼、のち参考とした。88年文学博士、元老院議官となる。また修史事業の帝国大学への移管(1888)に伴い、臨時編年史編纂掛(がかり)委員長、文科大学教授も兼任し、後年の史料編纂事業の基礎を固め、わが国のアカデミー史学の確立に努めた。また過去の史実・史伝への批判に厳しく、久米とともに「抹殺博士(はかせ)」との非難を受けた。91年発表の久米の論文「神道(しんとう)ハ祭天の古俗」に対し、翌年旧守的な神道家などから非難、攻撃が集中、93年この久米事件の余波を受け、編纂掛が廃止となったため、委員長を辞した。明治43年12月6日、東京・市谷の自宅で死去した。おもな著書に『稿本国史眼』(共編)、『国史綜覧藁(そうらんこう)』『成齋文初集』などがある。

[松島榮一]

『『重野安繹史学論文集』全3冊(1938~39・雄山閣)』『『明治史論集2』(『明治文学全集78』1976・筑摩書房)』


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改訂新版 世界大百科事典 「重野安繹」の意味・わかりやすい解説

重野安繹 (しげのやすつぐ)
生没年:1827-1910(文政10-明治43)

漢学者,国史学者。名は安繹,字は士徳,号は成斎。鹿児島の人。江戸に出て昌平黌(しようへいこう)に学び,塩谷宕陰(とういん),安井息軒らの教えを受けた。帰郷して薩摩藩に仕えたが,1871年(明治4)上京して官に就き,その後修史局副局長,修史館編修長などを歴任し,史料の探訪,編集に力を尽くし,明治期の修史事業の基礎を定めた。88年,帝国大学文科大学教授となり,実証的方法を用いて,児島高徳の史話や楠木正成の桜井駅の別れの史話は事実でないとするなど,日本史の研究に新生面を開いた。史学会会長として学界に重んぜられる一方,漢文の制作にすぐれ名文家として盛名があり,多くの漢文の文社に関係して漢学の維持に貢献した。著に星野恒,久米邦武との共著《国史眼》(1890)のほか,《国史綜覧稿》《成斎文集》《成斎遺稿》などがある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「重野安繹」の意味・わかりやすい解説

重野安繹
しげのやすつぐ

[生]文政10(1827).10.10. 薩摩
[没]1910.12.6. 東京
明治の国史学者,漢学者。字は士徳,通称は厚之丞,号は成斎。初め藩校造士館に学び,嘉永1 (1848) 年,江戸に出て昌平黌に入った。元治1 (64) 年造士館助教となり,島津久光の命により修史に従事,『皇朝世鑑』を編修。薩英戦争後の対英交渉にあたったこともある。明治4 (71) 年文部省に入って史料収集と『大日本編年史』の編集にあたった。 1888年東京大学教授,90年貴族院議員。考証主義的立場から,児島高徳や楠公父子桜井の別れなどを史実ではないと断じ,近代史学の基礎を築いた。著書に久米邦武,星野恒協力の『国史眼』,ほかに『国史綜覧稿』『成斎文集』などがある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「重野安繹」の解説

重野安繹 しげの-やすつぐ

1827-1910 幕末-明治時代の歴史学者。
文政10年10月6日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。昌平黌(しょうへいこう)にまなび,藩校造士館助教となる。維新後,修史館で久米邦武らと「大日本編年史」の編修にあたり,実証史学をうちだす。のち帝国大学教授となり,国史科を設置。明治23年貴族院議員。漢学者としても知られた。明治43年12月6日死去。84歳。字(あざな)は子徳。通称は厚之丞。号は成斎,隼所など。編著に「稿本国史眼」(共編),「国史綜覧稿」など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「重野安繹」の解説

重野安繹
しげのやすつぐ

1827.10.6~1910.12.6

明治期の歴史学者。鹿児島藩の郷士出身。号は成斎。藩校造士館助教ののち文部省に入り,修史館1等編修官・同編修副長官。「大日本編年史」の編纂にあたり史料にもとづく実証主義史学を説く。臨時編年史編纂掛委員長兼帝国大学文科大学教授,史学会初代会長,貴族院勅選議員などを務めた。晩年は史学界の長老として重きをなす。漢詩人としても名高い。著書「赤穂義士実話」「国史眼」(共著),「重野博士史学論文集」。

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旺文社日本史事典 三訂版 「重野安繹」の解説

重野安繹
しげのやすつぐ

1827〜1910
明治時代の歴史学者
薩摩藩出身。造士館から昌平坂学問所に学ぶ。1875年以降修史局で『大日本編年史』の編纂を主宰。'88年東大教授となる。国史科の設置に尽力し,実証主義史学の基礎を築いた。著書に『国史眼』『国史綜覧稿』など。

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世界大百科事典(旧版)内の重野安繹の言及

【久米事件】より

…帝国大学教授で史誌編纂委員だった久米邦武の論文〈神道は祭天の古俗〉を掲載した〈《史学会雑誌》〉(1891年10‐12月号)と,同論文を転載した〈《史海》〉(1892年1月25日号)が,1892年(明治25)3月5日に発売頒布禁止の処分を受け,また久米が前日の3月4日に非職を命ぜられた事件。 久米は重野安繹とならんで太政官修史館における修史事業の中心的人物であり,史料収集と史料批判を基礎とした近代史学の確立のために努力し,欧米史学にも深い関心を寄せていた。1888年,国の修史事業が臨時編年史編纂掛(1891年史誌編纂掛に改組)として帝国大学に移されたのにともない,久米も文科大学教授となった。…

【静嘉堂文庫】より

…三菱の岩崎小弥太が設立し,現在は東京都世田谷区に所在する文庫で,和漢の貴重な典籍,絵画,彫刻,工芸品など多数収蔵する。父の弥之助の蔵書をもとに,初めは神田駿河台の岩崎邸の一角に開館し,重野安繹(しげのやすつぐ)に収集・管理を任せて和漢の書を集め,また1894年青木信寅の古写本を中心とする和書蔵書240部1033冊をはじめとして,一括購入も併せ行った。中村正直(敬宇)の漢籍など1562部1万3181冊,色川三中(みなか)(1802‐55)の国文学関係の和書1374部4939冊,竹添進一郎(光鴻)の漢籍515部7204冊,松井簡治の〈松井文庫〉(国語国文学関係の和書5902部1万7016冊),諸橋轍次の〈百国春秋楼書(ろうしよ)〉(春秋学関係書に特色のある漢籍174部1200冊)などがある。…

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