星野村(読み)ほしのむら

日本歴史地名大系 「星野村」の解説

星野村
ほしのむら

現星野村域をもって一ヵ村を成した近世の村。生葉いくは郡に属した。久留米城下を起点とする山中さんちゆう街道が星野川沿いに通り、豊後日田に結ばれる(正保四年大小道之帳)。村内に一里塚(七―九里目)が置かれていた(在方諸覚書)。星野谷を拠点とした星野氏は本星野ほんぼしのに館を構え、山中にうち城・高岩たかいわ城を築いていたほか、鷹取たかとり城・高島たかしま城があったという(筑後将士軍談)。うち内城は妙見みようけん城ともいい、本拠とされた(星野家譜)。永禄一二年(一五六九)大友宗麟は田原親永に大友氏に背き島津氏に従った星野親忠攻撃を命じ、親永は三月中旬より親忠の籠もる妙見城(現吉井町)攻撃を開始したが、攻略は難航したという(北肥戦誌)。天正六年(一五七八)三月二日書写の筑後領主付(筑後将士軍談)によれば、星野正実が「星野村城」に居城したという。同一二年一二月星野城は戸次道雪率いる豊後勢によって攻め落されている(立花系伝)

天正一五年六月の豊臣秀吉の国割により生葉郡は小早川隆景領に組込まれたが、上妻こうづま郡を所領とする筑紫広門との間で当村の帰属をめぐって相論となり、交渉に臨んだ小早川氏側の樋口実長の主張が通って生葉郡の所属と定められたという(星野家伝記)。文禄四年(一五九五)麻生氏に生葉郡内「星野山村」三三八石余などが安堵されている(同年一二月一日「麻生氏知行方目録写」麻生文書)。慶長六年(一六〇一)より田中吉政領となる。小早川氏に次いで田中氏も星野氏没落後の星野谷の地方支配をすべて実長に任せるが、実長もそれにこたえて尽力したことから星野谷開基とも称された(星野家伝記)。元和六年(一六二〇)久留米藩領となり、幕末に至る。慶長八年五月一一日の生葉郡之内星野谷村物成詰帳(歴世古文書)に代官樋口越前とみえ、慶長元年の玄蕃高三三八石余で、物成は白米八九石余・大豆七九石余、ほかに茶・柿・紙の三色代銀三四貫・漆五〇盃(飯椀)・桑代綿二〇〇匁などが課されていた。


星野村
ほしのむら

面積:八一・二八平方キロ

八女郡の北東部に位置する。西は上陽じようよう町、南西は黒木くろぎ町、南東矢部やべ村、北は浮羽うきは浮羽町、東は大分県日田郡前津江まえつえ村と接する。南部はたか(五六七・二メートル)おお(五九九・二メートル)の両峰からほぼ東の石割いしわり(九四一・五メートル)に至る稜線が続き、北部は鷹取たかとり(八〇二メートル)を最高点とする耳納みのう連山が連なる。村東部の山々を水源とする星野川が西流して八女市域で矢部川に合流する。星野川沿いに主要地方道八女―香原かわら線・同浮羽―石川内いしかわち線などが通る。


星野村
ほしのむら

[現在地名]栃木市星野町

鍋山なべやま村の北西に位置し、村内を永野ながの川が流れる。北東に谷倉やぐら山、南西に三峰みつみね山がある。天正一六年(一五八八)一二月二〇日の佐野氏忠軍勢催促状写(島津文書)に星野郷とみえ、同郷代官星野民部が欠落したため小曾戸丹後守が任じられている。軍役は同郷二〇〇貫文に対して馬上五騎、鉄炮放侍二〇名、大小旗持二名となっている。元和五年(一六一九)宇都宮藩領(日向野徳久文書)。慶安郷帳では田一二三石余・畑二二六石余で幕府領。寛文四年(一六六四)の武蔵岩槻藩領知目録に村名がみえる。


星野村
ほしのむら

中世の大西だいさい庄内の村で、もとは猪尾谷いのおだに村の一部であったと思われる。嘉暦二年(一三二七)二月二四日の飯沼親泰が作成した出雲国猪尾谷村坪付(佐草家文書)に「ほしのゝやしき」とみえ、猪尾谷村東方一分地頭飯沼親泰(覚法)は妹源氏女との相論の結果、当地にあった屋敷のほか田一町五反・野畠などを源氏女に与え、領家年貢は覚法のほうで弁済するなどの条件で和解した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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