有賀村(読み)あるがむら

日本歴史地名大系 「有賀村」の解説

有賀村
あるがむら

[現在地名]諏訪市豊田とよだ 有賀

諏訪湖の南、伊那に通じる有賀峠の麓に位置し、北西は小坂おさか(現岡谷市)、南東は北真志野きたまじの村と接する。

承久元年(一二一九)八月の「諏方十郷日記」(守矢文書)に「有賀十四丁」とみえている。嘉禎三年(一二三七)の奥書をもつ「祝詞段」には「有賀之郷ニニウリニウタイチカト若宮小式原渡リ御社宮神」と、当時の有賀郷に祀られた神が示されている。慶長七年(一六〇二)の千野孫九郎宛諏訪頼水知行分状(諏訪教育会蔵)によれば、有賀村の五一三石が千野氏に与えられている。同一八年三月の信州諏訪郡高辻には、「高五百拾八石 有賀郷」とあり、享保一八年(一七三三)書上の諏方藩一村限村地図(長野県庁蔵)には「家数百八拾三軒 寺一ケ所 高六百三拾三石七斗七升六合九勺」とある。


有賀村
ありがむら

[現在地名]若柳町有賀

武鎗むやり村の西。南は水田が開け、南端なつ川が東流する。南は三迫の大林さんのはさまのおおばやし村、西は同金成かんなり(現金成町)で、当村も三迫に属し、三迫大肝入の管轄下。村名由来については「封内風土記」などによれば、源頼義・義家父子が阿倍氏を征伐し凱旋する途中、当地で越年したが、二五歳を迎えた義家を里人が盛大に祝した。父子は喜び、村地を割いて有賀と名付けたという。「安永風土記」に斐野あやの(有賀城)が記され、康平六年(一〇六三)義家が同館で越年したとある。これより先藤原利仁が出陣し、のち明応年中(一四九二―一五〇一)大崎氏家臣が居館、天正元年(一五七三)大崎氏敗退のあとは葛西氏家臣渋谷備前守が入ったという。


有賀村
ありがむら

[現在地名]内原町有賀

桜川西岸の台地の南端部に位置し、石塚いしつか(現常北町)から石岡(現石岡市)へ通ずる石塚街道の北西にある。東は水田を隔てて牛伏うしぶし村。

古代は「和名抄」にみえる那賀なか安賀あか郷の地とされ、中世には村の北西の台地に塚原つかはら城が築かれ、笠間城(現笠間市佐白山)と水戸城を同時に望む戦略上の要地であった。現在の村の家屋の配置にも当時の遺制がみられる。和光院過去帳(和光院文書)の元和三年(一六一七)に「安賀村」と記され、同過去帳の寛永六年(一六二九)には「有賀村」とある。近世の領主は慶長七年(一六〇二)まで佐竹氏、正保二年(一六四五)まで秋田氏、天和二年(一六八二)までは不明、幕末期までは水戸徳川家の支藩宍戸松平家であった。


有賀村
ありがむら

[現在地名]波賀町有賀

引原ひきはら川の右岸、その支流斉木さいき川の左岸に位置し、両川は当村の南東端で合流する。南の斉木川対岸は安賀やすが村。慶長国絵図にみえる「あまか乃村」は、判読しにくいが「ありか乃村」とも読めるか。領主の変遷は元和元年(一六一五)まで安賀村と同じ。同年山崎藩領、慶安二年(一六四九)一部が幕府領となり、同領は西有賀村、山崎藩領は東有賀村と称された(寛文朱印留・波賀町誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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