長浜湊(読み)ながはまみなと

日本歴史地名大系 「長浜湊」の解説

長浜湊
ながはまみなと

よね川河口付近に位置。彦根藩三湊の一として江戸時代は彦根藩船奉行の管轄・保護下にあり、当初は同藩の御用船・軍用船のための湊であったが、のち年貢米の津出しや商船出入りする湊として栄え、おもに里程約一六里の大津浦と結ばれた。江戸時代の上船かみふな町・下船町小船こぶな町・船片原ふなかたはら町が港湾区に相当し、元禄九年(一六九六)の長浜町絵図(今村家蔵)には米川が琵琶湖流入する地点に川口舟入と記され、その西側に石垣に囲まれた舟苫干場を描く。水路は三筋に分れ、東端のもの(米川)船片原町から下船町を経て上船町まで延び、中央のものは長浜城跡を大きく囲む。西端のものは天守跡と記された地点まで延びて堀状を呈し、中島、本丸大堀御運上堀と記される。米川沿いの旧船町通付近は現在も舟入り場への石段が残り、かつての倉庫などの建物も残る。

当湊は天正二年(一五七四)羽柴秀吉の長浜城築城・城下町建設に伴って整備されたといわれ、のちに船年寄をつとめる吉川氏によって当時から管理されてきたとされる。


長浜湊
ながはまみなと

[現在地名]長浜町長浜

大洲おおず城下の外港。元和三年(一六一七)加藤貞泰の大洲就封に伴い、江湖えごとよんでいるひじ川河口の入江を藩船の停泊港としたことに始まる。江湖を囲んで船奉行所・波戸番所・船蔵・作業場・川口番所が置かれ、一般の船舶はここより北の川岸一帯に停泊した。「西海巡見志」には、遠見番所・船番所あり、川湊あり、西風強し、一〇〇石以上の船一〇〇艘かかる、家数二〇八、舟数七一艘、うち四六艘三〇石積より三七〇石まで、漁舟二五艘、加子数二九一人、うち役加子一二人と寛文七年(一六六七)頃の港勢を伝えている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の長浜湊の言及

【長浜[市]】より

…長浜町は彦根奉行の支配下に置かれたが,町の機構はそのまま残され,95年(元禄8)には戸数1084戸,人口4723人を数え,町数は享保年間(1716‐36)52ヵ町あった。町は北国街道の宿駅であり,また長浜湊は松原(彦根),米原とともに彦根三湊の一つとして湖上交通や漁業の要港であった。後背地の湖北農村は,早くから養蚕・製糸が副業として行われたが,近世中期には長浜町を中心として浜縮緬,浜蚊帳の特産地およびその市場を形成して発達した。…

【プノンペン】より

…カンボジアの首都。人口92万(1994)。メコン河口から約300km遡航した自然堤防上の河岸に開けた都市で,港は2500トンまでの船が横づけできる。プノンペンとはカンボジア語で〈ペンの丘〉を意味する。《王朝年代記》によれば,洪水のときに上流から仏像4体が流れつき,敬虔なペンという名の夫人がこの仏像を小さな丘の東斜面に安置したという。これが〈ペン夫人の丘の寺院〉説話で,プノンペン発祥伝説のもととなった。…

※「長浜湊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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