日本大百科全書(ニッポニカ) 「朝貢貿易制度」の意味・わかりやすい解説
朝貢貿易制度
ちょうこうぼうえきせいど
中国が明(みん)代を中心に行った対外政策。中国は東アジア方面で文化の起源がもっとも古く、産業も発達した先進国であったので、周囲の外国は中国商品を入手するため、金銀、奴隷、畜産または原料品をもたらして貿易を行った。これに対し中国は、古くから貿易統制を行うことによって、外国に圧力を加え、外交を有利に導く政策をとることがあった。元代は対外貿易のもっとも自由な時代であったが、明の太祖朱元璋(しゅげんしょう)(在位1368~98)が元にかわると、中国人の中国を標榜(ひょうぼう)し、いわゆる夷狄(いてき)との区別を厳しくし、外国貿易に統制を加えた。中国と貿易しようとする外国の君主は、明の主権を認めて属国となり、使者を派遣して朝貢を行わなければならない。この朝貢の際に随伴した人員が中国で貿易を行うことを許されるが、朝貢の度数、随伴の船や人員の数は厳しく制限される。朝貢国の君主はその人民を取り締まって中国の平和を乱してはならない。一方中国人民はけっして外国に渡り、または外国人と交通して政府の統制を破ってはならない。この政策は従来鎖国と称せられ、日本の鎖国の原型となったものであるが、近年はその実際に従って朝貢貿易制度と称せられる。明代の倭寇(わこう)はこのような統制に反抗して起こったものである。そのため明政府は1567年、漳州(しょうしゅう)(福建省)の港から中国人民が短期間海外渡航することを認め、統制を緩和した。清(しん)朝は国初に一時鎖国を行い、康煕(こうき)帝(在位1661~1722)がこれを廃したが、貿易は外国に対する恩恵であるという原則を改めず、制限を加え、その後、西洋朝貢諸国の貿易は広東(カントン)の一港に限ると定めた。このような体制に反発したのは、自由貿易を方針とするイギリスであり、アヘン問題を契機として開戦し、1842年南京(ナンキン)条約によって清に港を開かせ、朝貢でない貿易を権利として認めさせた。しかしこれはまだ国を開いて国交を行うことではなかったので、ふたたびアロー戦争となり、その結果1860年北京(ペキン)条約により、清は義務として外国と対等の礼儀をもって国交を行うことを認めさせられた。
[宮崎市定]