冊封体制(読み)さくほうたいせい

百科事典マイペディアの解説

冊封体制【さくほうたいせい】

中国,歴代王朝が東アジア諸国の国際秩序を維持するために用いた対外政策。中国の皇帝が朝貢をしてきた周辺諸国の君主に官号・爵位などを与えて君臣関係を結んで彼らにその統治を認める(冊封)一方,宗主国対藩属国という従属的関係におくことをさす。朝貢とは,藩属国の使節が皇帝に朝見して土産の産物を献上することをいうが,これに対して皇帝は回賜として貢物以上の返礼物を与えて皇帝の威徳を示したから,朝貢は君臣関係を表す政治的儀礼であると同時に,貿易の一形態でもあった。歴史的には漢代における外臣の制度がその始まりと考えられるが,古くは周代の封建制度中華思想,華夷思想にもさかのぼれよう。3世紀に日本の耶馬台国の女王卑弥呼が〈親魏王〉の称号を得たことや,5世紀の〈倭の五王〉が朝鮮半島の高句麗・百済・新羅の三国と対抗して中国南朝の宋・斉に朝貢して官名を受けたことなどはその典型である。7世紀に唐朝が成立すると高句麗・百済・新羅は唐との間に冊封関係を結び,新羅による統一後も唐と改めて冊封関係を結んだ。また朝鮮半島北方に成立した渤海(ぼっかい)も唐と冊封関係を結んだので,東アジアの国際情勢は唐を中心とした冊封体制のなかに組み込まれた。なお,この時,日本はこの体制の外にあって中国とは対等の隣国関係を保持した。14世紀に明朝が成立すると海禁政策をとる一方,周辺諸国に入貢を求めたが,日本は室町幕府になって対明外交を進めて遣明船の派遣を決定(1401年),のち足利義満から明の永楽帝に宛てた国書(表)では〈日本国王臣源表〉とあって,ここに日明間の冊封関係が成立した(日明貿易)。また琉球国王も明・清両朝に朝貢して冊封関係にあった。
→関連項目朝貢貿易日朝修好条規

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

冊封体制
さくほうたいせい

近代以前の中国とその周辺諸国との関係を示す学術用語。冊封とは、中国の皇帝が、その一族、功臣もしくは周辺諸国の君主に、王、侯などの爵位を与えて、これを藩国とすることである。冊封の冊とはその際に金印とともに与えられる冊命書、すなわち任命書のことであり、封とは藩国とすること、すなわち封建することである。したがって冊封体制とは、もともとは中国国内の政治関係を示すものであり、これを中国を中心とする国際関係に使用するのは、それが国内体制の外延部分として重要な機能をもつものと理解されるからである。
 周辺諸国が冊封体制に編入されると、その君主と中国皇帝との間には君臣関係が成立し、冊封された諸国の君主は中国皇帝に対して職約という義務を負担することとなる。職約とは、定期的に中国に朝貢すること、中国皇帝の要請に応じて出兵すること、その隣国が中国に使者を派遣する場合にこれを妨害しないこと、および中国の皇帝に対して臣下としての礼節を守ること、などである。これに対して中国の皇帝は、冊封した周辺国家に対して、その国が外敵から侵略される場合には、これを保護する責任をもつこととなる。このような冊封された周辺国家の君主は、中国国内の藩国や官僚が内臣といわれるのに対して外臣といわれ、中国国内の藩国を内藩というのに対して外藩とよぶ。そして内藩では中国の法が施行されるが、外藩ではその国の法を施行することが認められ、冊封された外藩の君主のみが中国の法を循守する義務を負うことになる。
 周辺諸国に対する冊封関係は、国内で郡国制が採用された漢代初期から朝鮮、南越を対象として発生するが、武帝時代にはこれらは郡県化される。しかし西南夷(せいなんい)諸国に対しては冊封関係が継続し、また高句麗(こうくり)もこれに編入される。3世紀になると邪馬台国(やまたいこく)女王卑弥呼(ひみこ)が魏(ぎ)王朝から親魏倭王(わおう)に封ぜられて金印を受けたのも冊封体制へ編入されたことを示すものである。その後、朝鮮半島では百済(くだら)、新羅(しらぎ)がその対象とされ、唐代には新羅、渤海(ぼっかい)がその主要な藩国となる。しかし日本は6世紀以降はこの体制から離脱していた。
 10世紀初め唐帝国が滅亡すると、それ以後、中国を中心とする冊封体制は一時崩壊し、宋(そう)代にはかえって中国王朝が遼(りょう)や金の下位に置かれるという事態も起こるが、14世紀に明(みん)王朝が成立すると、冊封体制は強化され、足利義満(あしかがよしみつ)も明の永楽帝から日本国王に冊封され、日本もふたたびこの体制内に位置づけられる。しかし室町幕府の衰微とともにその関係は消滅した。清(しん)代では、この体制は日本とインドを除くアジアの大部分に拡大され、清仏戦争や日清戦争の原因の一つとなった。しかし東アジアにヨーロッパ勢力が及び、また中国の皇帝制度が消滅するとともに、この体制は消滅した。
 冊封体制の歴史的意義は、10世紀以前では中国文化を周辺諸国に伝播(でんぱ)させる媒体となったこと、それ以後では中国を中心とする東アジアの交易関係を統制し秩序化する役目を果たしたことである。しかし中国を中心とする国際関係は冊封関係のみではなく、敵国関係(対等な関係)、父子、兄弟、舅甥(きゅうせい)関係(国家関係を親族関係に比定した関係)、および冊封を伴わない単なる朝貢関係などのいろいろの形態があり、冊封関係はそのうちの一つであったが、中国と朝鮮、日本との関係としてはこの関係が重視される。[西嶋定生]
『西嶋定生著「六~八世紀の東アジア」(『岩波講座 日本歴史2』所収・1962・岩波書店)』

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世界大百科事典内の冊封体制の言及

【冊封】より

…冊書は本来は竹簡を編綴した竹冊であったが,後世は玉冊や綾錦の類も使用された。 西嶋定生は,中華帝国と冊封された周辺諸国の国際関係を〈冊封体制〉の概念でとらえる説をとなえた。冊封された諸国の君主は,定期的朝貢,中国の要請に応ずる出兵,臣礼遵守等の義務を課されるとともに,外敵の侵略に際し中国の庇護を保証される関係に立つ。…

【唐】より

…後半期は律令体制の崩壊期で,藩鎮が各地に割拠する社会であり,魏晋南北朝以来つづいてきた貴族制社会の終焉期であった。
【政治の動き】

[冊封体制の確立]
 高祖李淵は,即位して7年の間に各地の群雄を平らげたが,その際に最も功績のあったのは次男の李世民であった。そこで即位して9年目に位を譲って太上皇となった。…

【東アジア】より

…周辺諸国の政治権力は,中国の王朝から金印や官号,爵位を授けられることによって権威を獲得しようと努めた。このような政治的権威の授受関係によって秩序を与えられた近代以前の東アジア国際体系を,冊封(さくほう)体制と呼ぶ。また,周辺諸国は定期的あるいは不定期に中国の朝廷に朝貢使節を送った。…

【琉球】より

…北部には今帰仁(なきじん)城を拠点とする〈山北(さんほく)(北山)〉が,中部には浦添(うらそえ)城(のちに首里(しゆり)城)を拠点とする〈中山(ちゆうざん)〉が,南部には島尻大里(しまじりおおざと)城(一時は島添(しまそえ)大里城)を拠点とする〈山南(さんなん)(南山)〉が割拠して互いに覇を競った。 1372年中山王察度(さつと)は中国に誕生した明朝の太祖洪武帝の招諭を受け入れて初めて入貢し,その冊封(さくほう)体制の一員となった。これにつづいて山南王,山北王も同様の関係を結び,三山の対立はいよいよ激化する形勢となった。…

【冊封】より

…冊書は本来は竹簡を編綴した竹冊であったが,後世は玉冊や綾錦の類も使用された。 西嶋定生は,中華帝国と冊封された周辺諸国の国際関係を〈冊封体制〉の概念でとらえる説をとなえた。冊封された諸国の君主は,定期的朝貢,中国の要請に応ずる出兵,臣礼遵守等の義務を課されるとともに,外敵の侵略に際し中国の庇護を保証される関係に立つ。…

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