日本大百科全書(ニッポニカ) 「冊封体制」の意味・わかりやすい解説
冊封体制
さくほうたいせい
近代以前の中国とその周辺諸国との関係を示す学術用語。冊封とは、中国の皇帝が、その一族、功臣もしくは周辺諸国の君主に、王、侯などの爵位を与えて、これを藩国とすることである。冊封の冊とはその際に金印とともに与えられる冊命書、すなわち任命書のことであり、封とは藩国とすること、すなわち封建することである。したがって冊封体制とは、もともとは中国国内の政治関係を示すものであり、これを中国を中心とする国際関係に使用するのは、それが国内体制の外延部分として重要な機能をもつものと理解されるからである。
周辺諸国が冊封体制に編入されると、その君主と中国皇帝との間には君臣関係が成立し、冊封された諸国の君主は中国皇帝に対して職約という義務を負担することとなる。職約とは、定期的に中国に朝貢すること、中国皇帝の要請に応じて出兵すること、その隣国が中国に使者を派遣する場合にこれを妨害しないこと、および中国の皇帝に対して臣下としての礼節を守ること、などである。これに対して中国の皇帝は、冊封した周辺国家に対して、その国が外敵から侵略される場合には、これを保護する責任をもつこととなる。このような冊封された周辺国家の君主は、中国国内の藩国や官僚が内臣といわれるのに対して外臣といわれ、中国国内の藩国を内藩というのに対して外藩とよぶ。そして内藩では中国の法が施行されるが、外藩ではその国の法を施行することが認められ、冊封された外藩の君主のみが中国の法を循守する義務を負うことになる。
周辺諸国に対する冊封関係は、国内で郡国制が採用された漢代初期から朝鮮、南越を対象として発生するが、武帝時代にはこれらは郡県化される。しかし西南夷(せいなんい)諸国に対しては冊封関係が継続し、また高句麗(こうくり)もこれに編入される。3世紀になると邪馬台国(やまたいこく)女王卑弥呼(ひみこ)が魏(ぎ)王朝から親魏倭王(わおう)に封ぜられて金印を受けたのも冊封体制へ編入されたことを示すものである。その後、朝鮮半島では百済(くだら)、新羅(しらぎ)がその対象とされ、唐代には新羅、渤海(ぼっかい)がその主要な藩国となる。しかし日本は6世紀以降はこの体制から離脱していた。
10世紀初め唐帝国が滅亡すると、それ以後、中国を中心とする冊封体制は一時崩壊し、宋(そう)代にはかえって中国王朝が遼(りょう)や金の下位に置かれるという事態も起こるが、14世紀に明(みん)王朝が成立すると、冊封体制は強化され、足利義満(あしかがよしみつ)も明の永楽帝から日本国王に冊封され、日本もふたたびこの体制内に位置づけられる。しかし室町幕府の衰微とともにその関係は消滅した。清(しん)代では、この体制は日本とインドを除くアジアの大部分に拡大され、清仏戦争や日清戦争の原因の一つとなった。しかし東アジアにヨーロッパ勢力が及び、また中国の皇帝制度が消滅するとともに、この体制は消滅した。
冊封体制の歴史的意義は、10世紀以前では中国文化を周辺諸国に伝播(でんぱ)させる媒体となったこと、それ以後では中国を中心とする東アジアの交易関係を統制し秩序化する役目を果たしたことである。しかし中国を中心とする国際関係は冊封関係のみではなく、敵国関係(対等な関係)、父子、兄弟、舅甥(きゅうせい)関係(国家関係を親族関係に比定した関係)、および冊封を伴わない単なる朝貢関係などのいろいろの形態があり、冊封関係はそのうちの一つであったが、中国と朝鮮、日本との関係としてはこの関係が重視される。
[西嶋定生]
『西嶋定生著「六~八世紀の東アジア」(『岩波講座 日本歴史2』所収・1962・岩波書店)』