木野村(読み)このむら

日本歴史地名大系 「木野村」の解説

木野村
このむら

[現在地名]生野区鶴橋つるはし一―三丁目・桃谷ももだに二―三丁目、東成ひがしなり東小橋ひがしおばせ一―三丁目・玉津たまつ二―三丁目、天王寺区下味原しもあじはら町・舟橋ふなはし町・玉造元たまつくりもと町など

東成郡に属し、北は中道なかみち(現東成区)玉造村(現天王寺区)、西は小橋村(現同上)。集落は平野川左岸の自然堤防上にある。「摂津名所図会大成」には、「五榎木山いえきやま 木村ニあり往古大樹の榎木五株ありしより斯ハ号せしが、土俗誤りて上野山うへのやまといひ、五榎木村いへのきむらといへるを、後世略して木村このむらといふとぞ」とある。なお、「摂津名所図会」は「五榎山うへのやま」を比売許曾ひめこそ神社(現東成区)のもとの御旅所とする。

正和四年(一三一五)一〇月九日付の摂津国守護使沙弥道覚請文(離宮八幡宮文書)によると、「天王寺領木村住人七郎男并得願法師等」が、津料と号して山城石清水いわしみず八幡宮の大山崎神人から荏胡麻を押取ったのを返却するよう命じられている。これが木村の地名のみえる早い例で、当時四天王寺(現天王寺区)領であった。大山崎神人は鎌倉時代から諸関免除の特権をもち荏胡麻の購入・油の販売の独占権を諸国に拡大しようとしたが、応永四年(一三九七)五月二六日の室町幕府管領署判下知状(同文書)は、摂津の「道祖小路」、天王寺てんのうじ(現天王寺区)、木村、住吉・遠里小野おりおの(現住吉区)および近江の「小(脇)」の住人らが大山崎神人の特権を侵して荏胡麻油の製造・販売するのを禁じるとともに、油器を破却するよう命じている。しかし、その後の応永二一年・翌二二年にも、摂津守護細川満元が木村の住人らの荏胡麻油の製造・販売を停止する書下状(同文書)を出しており、木村の油生産がますます盛んになっていったことを物語っている。


木野村
このむら

[現在地名]大竹市大竹町木野・木野一―二丁目

小方おがた村の南に位置し、西は木野川を隔てて周防国に相対する。東南は山が連なり、山麓を通る山陽道沿いに集落が展開する。慶長六年(一六〇一)の福島検地により、畝数一三町九反余・高一〇八石余の村として成立したが、元和元年(一六一五)の洪水で一一町四反余・高六六石となる(国郡志下調書出帳)。同五年の安芸国知行帳には「この村」とみえ、時に「小野村」とも書く。


木野村
ならきのむら

[現在地名]波野村波野 楢木野ならぎの

東は滝水たきみず村、西は波野村、南は滝水川を境に高柳たかやなぎ村、北は泉谷いずみだに川を境に波野村と接する。現波野村のほぼ中央に位置する。阿蘇谷東郷の南坂梨みなみさかなし郷を本郷とする分村。外輪山外側斜面にあり、田地が乏しいので「野里」とよばれ、畠作生産物がおもな徴税対象となっていた。貞和四年(一三四八)一一月七日の南坂梨郷屋敷得分注文案(阿蘇家文書)のうちに「一所ならきのゝむらのふん 小次郎 五百文(苧)ようとう(用途) 二百文あい(藍)しろ(代) 八十文かわ(皮)のしろ ひゑ(稗)三十(駄) まめ一石 以上七百八十文」とあり銭七八〇文などが小次郎の得分となっていた。小次郎は北朝系阿蘇大宮司家の庶子と思われる。


木野村
このむら

[現在地名]美濃加茂市加茂野町木野かものちようこの

蜂屋はちや丘陵の南西に続く加茂野台地のうち、太田おおた村から北西に延びる関街道沿いにある。弘治二年(一五五六)頃の斎藤義龍が加治田かじた(現加茂郡富加町)の桑原右近衛門尉に与えた斎藤范可充行状(斎藤文書)に「木村」が含まれ、その年貢銭目録に「このむら弐百貫」とある。寛政一二年(一八〇〇)の古溜池敷地争論蜂屋村返答書(蜂屋連絡所文書)によれば、天正一七年(一五八九)片桐東市正検地で蜂屋村高三千二三九石のうち二三九石余を枝郷木野として分割し、一柳伊豆守知行所とした。享保八年(一七二三)尾張藩が見取所改を実施したとき、入会草原のうち南山は蜂屋村地、野方は木野村地であることを再確認した(「南山新開争論蜂屋村木野村取替証文」堀部文書)


木野村
きのむら

[現在地名]美浜町木野

みみ川の右岸天王てんのう山南側の山裾に立地。東は佐柿さがき村、北は和田わだ村。弘治二年(一五五六)六月の明通寺鐘鋳勧進算用状(林屋辰三郎氏蔵)に「四十五文 木の村」とある。永禄六年(一五六三)の朝倉勢若狭攻めのとき、国吉くによし城籠城に加わった地侍のなかに木野村の大野右京の名がみえる(佐柿国吉城籠城記)正保郷帳によれば田方一三三石余、畑方はない。


木野村
きのむら

[現在地名]緒方町木野

徳田とくだ村の西、巣石すいし山南西の台地上にある。北を北流する緒方川に北西部で十角とすみ川が合流する。正保郷帳に村名がみえ、田高四七石余・畑高一五〇石余。太田おおた郷に属し、柴山有と注記される。享和三年(一八〇三)には高三〇六石の下の村で、名請人六三名、うち三―七石持の者が三三名を占めている(北村家文書)。旧高旧領取調帳では高三九八石余。安永七年(一七七八)には太田組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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