玉造村(読み)たまつくりむら

日本歴史地名大系 「玉造村」の解説

玉造村
たまつくりむら

[現在地名]玉造町こうおつ

霞ヶ浦沿岸にあり、北は谷島やじま村・若海わかうみ村。建武二年(一三三五)九月日の土岐頼貞寺領寄進状(円覚寺文書)

<資料は省略されています>

とあり、玉作たまつくり郷内の田地三町が頼貞によって鎌倉の円覚寺正続院に寄進されている。また応安年間(一三六八―七五)の海夫注文(香取文書)には「みやきさきの津玉造知行分」とある。寛正五年(一四六四)常陸大掾氏の一族行方景幹の四子幹政がこの地に築城して玉造四郎と称し(水府志料)、天正一九年(一五九一)佐竹氏に滅ぼされるまで玉造氏の根拠地となった。

江戸時代は水戸藩領で寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に村高二千三九石余とあり、ほかに新田八〇石余が記される。「常陸紅葉郡鑑」(楯石氏蔵)には、大御山守年寄兼大場惣介苗字帯刀御免、庄屋白井小衛門苗字御免、組頭一二人、御立山一九四町・御立藪一町余・分付山一三町、酒造高五三四石余、御制札場御札八枚、土橋三ヵ所、水門四ヵ所、悪水吐一ヵ所、古城跡一ヵ所、享保三年(一七一八)の人別一千八九二、当時村用金二千両などと記載される。


玉造村
たまづくりむら

[現在地名]佐原市玉造

下総台地北端部に位置し、東は佐原村。南西部を成田道が通る。北のいわさき村方面に谷津田が開け、東方に佐原町が広がる。集落は丘陵上に形成されている。慶長四年(一五九九)の矢作領検地では検地高四七〇石余、枝村として北西の新寺にいでら村を含んでいる(「部冊帳」伊能家文書)。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図には「玉作」と記される。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高四五二石余、旗本飯高・三枝・小笠原・後藤・夏目・水野・阿部領の相給。享保四年(一七一九)当時は飯高・三枝・阿部領は各八六石余、小笠原領六三石余・後藤領五八石余・夏目領三五石余、水野領に代わった旗本佐野領は三五石余(前掲部冊帳)


玉造村
たまつくりむら

[現在地名]天王寺区玉造元たまつくりもと町・玉造本たまつくりほん町など

上町うえまち台地の東斜面下にあり、地形はほぼ平坦で西は吉右衛門肝煎地きちえもんきもいりち。村の北には大坂三郷に属する玉造各町(現東区)がある。天正二〇年(一五九二)三月二三日付の豊臣秀吉朱印状(足守木下家文書)によると、「玉つくり」二〇〇石が北政所の知行とされている。この「玉つくり」は現東区にかけて広い範囲をさし、文禄四年(一五九五)正月一一日の豊臣秀吉朱印状(同文書)では、北政所知行分の玉作は先高四八石と出米八六石余となっている。


玉造村
たまづくりむら

[現在地名]金砂郷村玉造

山田川下流の東側にあり、北は芦間あしま村。天下野けがの街道が村内を南北に走る。「新編常陸国誌」に「旧上久米村ト呼ビタリトゾ」とみえ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高は「久米村 玉造共ニ」と記し、同一五年の御代官郷高帳(「田制考証」所収)には「玉造村」と記され、三六二石が蔵入地であった。明治九年(一八七六)の「区用録」(宮本精一氏蔵)によると高四九六石余(大縄場山林入)、戸数五〇、馬数二八。「国用秘録」によると、江戸時代割地が行われ「玉造村惣高を弐拾壱ニ割弐拾六石余ツヽニ成ル是を小百姓弐人ツヽ組合鬮取ニ定ム壱人前拾三石余ツヽわけ作りニして四ケ年廻りニ割替畠方拾弐ケ年廻りニ割替ル定也元禄年中より割地ニ成ル」と記される。


玉造村
たまつくりむら

[現在地名]玉湯町玉造

はやし村の東に位置し、玉湯川流域の谷間の村。村名は古代の玉作りに由来する。慶長七年(一六〇二)の玉作之内別所村御検地水帳および長谷川氏所蔵の同一二年の薬師鰐口の銘文から、近世初期までは玉作と書いた。正保国絵図には湯坪ゆつぼとみえる。寛文二年(一六六二)の玉造村検地帳によると高六六四石余、反別田方四六町三反余・畑方七町八反余、屋敷数四八軒、うち御茶屋床・慶性けいしよう(清巌寺)・御種米蔵・湯納屋敷・岩屋いわや寺など一二軒が御役御免屋敷であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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