末野村(読み)すえのむら

日本歴史地名大系 「末野村」の解説

末野村
すえのむら

[現在地名]寄居町末野

寄居村・藤田ふじた村の西に位置し、西から南を荒川が湾曲して流れる。南は荒川を隔て男衾おぶすま折原おりはら村、荒川に沿うように秩父往還が通り、西の同川対岸秩父郡金尾かなお村との間に殿倉とのくらの渡がある。地内には県指定史跡の末野窯跡ほか多数の窯跡が分布し、城見上じようみかみ遺跡は発掘調査によって須恵器工人の集落と考えられていることから、末野の本来の意は陶野と考えられている。猪俣党藤田氏の累代の居城とされる花園はなぞの城跡がある。上野野栗のぐり権現社(現群馬県上野村)の永正二年(一五〇五)一月銘をもつ梵鐘銘に「武蔵国□□□郷末野村」とあったとされるが(上毛金石文年表)、これは当村のことであろうか。永禄一一年(一五六八)一二月九日、山口二郎五郎に末野の内の九四四文が検地増分として改めて宛行われ、同一二年九月二二日には逸見蔵人佐の嘆願に対して末野の内の一貫一七〇文が増給として宛行われている(ともに「北条氏邦印判状」山口文書・逸見文書)。天正元年(一五七三)一〇月二三日、末野の鐘阿弥は鉢形はちがた領の鐘打司に任命されるとともに、月五度の飛脚出役を命じられ、飛脚の活躍によって屋敷を宛行われている(「北条氏邦印判状写」武州文書)

田園簿では高三〇〇石、旗本日下部領。


末野村
すえのむら

[現在地名]三和村末野

保倉ほくら川左岸に位置し、西方に青野あおの(現上越市)がある。南は山腰やまこし新田、北は末野新田。永享一一年(一四三九)一一月七日の越後守護上杉房朝袖判社領寄進状(居多神社文書)に「一所(ママ)野新保知行分屋敷三間并 川原畠在是 同高津郷内飯田ニ田二段」とあり、居多こた神社(現上越市)へ寄せられた。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図には「山田(彦カ)五郎分此外拾方分(ママ)野村 中」とみえ、本納七二石二斗一升一合・縄高一三九石二升、家八軒・三一人とある。


末野村
すえのむら

[現在地名]金成町末野

藤渡戸ふじわたど村の東、金流きんりゆう川両岸に広がる。北は有壁ありかべ村、東は奈良坂ならさか(現岩手県西磐井郡花泉町)、村西を奥州街道が通り、それより金流川沿いに奈良坂に通じる道がある。村北西の普賢堂ふげんどう村・赤児あかつご村地区を上野かみのと称し、それに対し当地を末野といったという。正保郷帳に田四六貫一三六文・畑五貫六九五文とあり、小松山と注され、ほかに新田一貫三五〇文。


末野村
すえのむら

[現在地名]上中町末野

安賀里あがり村の北東、丹後街道から北に入った三方郡との境近くの小盆地にある。一帯は粘土に富み窯跡もあることから、地名の原意は陶であろう。当地にある須部すべ神社(祭神陶津耳尊)は「延喜式」神名帳が三方郡に載せる「須部スヘノ神社」に比定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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