奈良と南山城(みなみやましろ)との境をなす奈良山を越える坂道。またその一帯の称。ただし,ひとくちに奈良坂越えとはいっても,古くには,大和古道の〈下ッ道(しもつみち)〉が北へ延びた〈歌姫越え(うたひめごえ)〉の道と,〈中ッ道〉が北へ延びたもう一つの道(JR関西本線沿い)とがあった。また,平城京遷都後は,しばらく〈歌姫越え〉のルートがすたれ,〈中ッ道〉のルートと,長らく〈東路〉と呼ばれた現在の奈良坂(旧国道24号線沿い)とが用いられるようになった。このうち前者は平安時代を通じて都と奈良(南都)とを結ぶ最も重要な路線をなしつつ〈奈良坂〉の名で呼ばれた。また後者は俗に〈般若寺(はんにやじ)越え〉とか〈般若道〉とかと呼ばれつつ,平安中期ころからしだいにその重要性を増してき,鎌倉時代に入ると前者に代わって〈奈良坂〉の名で呼ばれるようになった。奈良坂そのものに,そのような歴史的変遷があったので,古代から中世にかけての文学・説話に現れる奈良坂のルートについては注意を要する。
奈良坂が重要な交通路線に位置していたため人馬の往来も繁く,それをねらう〈山賊〉〈盗人〉が出没した話は《今昔物語集》に頻出しており,また《古今著聞集》にも見えている。ちなみに,平安末・鎌倉期の公家,九条兼実の日記《玉葉》には〈盗人を糺(ただ)す事〉という芸能が奈良坂で演じられたことを伝えている。かつては,奈良の春日社の祭礼に派遣された勅使が,神事の終了後に一同形相を乱して逃げ出すというならわしがあり,それは勅使が帰途に奈良坂で盗賊に襲われては周章狼狽(しゆうしようろうばい)して逃げ帰るのが常であったのを儀礼化したものであって,後日犯人を検挙したとして盗品になぞらえた禄物(ろくもつ)を関係者に分与するという形式をとっていた。このような,歴史的事実を反映した儀礼に材料を得た芸能が奈良坂では演じられていたのであろう。
鎌倉時代もなかばになると,奈良坂のあたり(般若寺越え)一帯は,乞食(こつじき)・非人の集住地として知られるようになった。鎌倉新仏教の興隆に対抗した西大寺流律宗の叡尊(えいそん),忍性(にんしよう)らによる慈善救済事業の一大拠点として,叡尊が再興した般若寺が急速に浮上したことによる。般若寺とその近辺には,癩者(ハンセン病患者)の療養所や死者の葬地が設けられていた。そのために奈良坂といえば〈盗賊〉の出没する恐ろしいところという従来の観念に加えて,〈前世の宿業(しゆくごう)〉を背負うと考えられた貧窮・流亡の病者や身体障害者たちが〈滅罪〉を願って集住するところという認識が普及し,中世以降における奈良坂のイメージを決定的なものとした。このイメージは,中世文学・芸能に貫流しており,ことに謡曲で奈良坂が舞台となる曲目に顕著であるといえよう。たとえば《春日竜神(かすがりゆうじん)》や《笠卒都婆(かさそとば)》(廃曲)などは,その代表的な作品例である。
執筆者:横井 清
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奈良市市街地の北東部、奈良山丘陵東部の佐保(さほ)丘陵を越える坂道および集落名。坂は般若寺坂(はんにゃじざか)ともよばれ、この坂を越えて京へ通じる京街道の奈良坂越えは、西の歌姫(うたひめ)越えとともに古来京都への主要街道であった。現在奈良坂の東側を旧国道24号が走っている。街道沿いの奈良坂(阪)町は近世に形成された集落である。
[菊地一郎]
… 古代末期から中世をつうじて,奈良や京都を中心とした地方では,主要な街道の坂道に相当数の貧窮民・流浪民が集住し,荘園領主(大寺社)の管下に統轄され,〈坂者(さかのもの)〉とか〈坂非人(さかのひにん)〉などと呼ばれながら雑業・雑芸に従事していたことが知られている。奈良坂や京都清水坂(きよみずざか)はその好例といえる。戦国期の大名領国制では,山地が他大名の領国との境界をなすことが多く,甲斐国の例では,国外への追放処分に付することを〈坂を越さす〉と称していた(《甲陽軍鑑》)。…
※「奈良坂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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