本坂村(読み)ほんざかむら

日本歴史地名大系 「本坂村」の解説

本坂村
ほんざかむら

[現在地名]三ヶ日町本坂

上尾奈かみおな村の北に位置する。東の日比沢ひびさわ村からの本坂通は村内を抜け、西の三河との国境本坂峠を越えて三河国嵩山すせ宿(現愛知県豊橋市)に至る。南東方向に板築ほうづき(二二六メートル)がある。「遠江国風土記伝」は板築をホムツキと読み、山の名を保保豆岐ほほずき(保保都支山)と解し、これが本坂となったとする。応永六年(一三九九)に「本坂」の大工が勝楽寺の修造にかかわったという(「棟札銘写」夏目文書)。室町時代には本坂の大工が近隣寺社の造営に多くかかわっている。寛正二年(一四六一)一二月一二日に建立された大福だいふく寺不動堂の棟上に際しては、本坂の小工として四郎兵衛・六郎兵衛が参加した(「大福寺不動堂建立記」大福寺文書)。同六年九月九日の贄代北脇にえしろきたわき村鎮守八王子社の造営では四郎兵衛が、文明九年(一四七七)二月五日の贄代鎮守若宮の修理には四郎左衛門が、明応七年(一四九八)一二月五日の贄代八王子社社殿造立には四郎左衛門が、大工としてそれぞれかかわっている(いずれも「棟札銘写」夏目文書)

一六世紀前半には浜名湖南岸の東海道が明応東海地震と永正高潮による被害を受けていたため、本坂道を通行する際に当地を経由する旅人軍勢往来が多かった。

本坂村
ほんざかむら

[現在地名]伊根町字本坂

浦島伝説の本庄ほんじよう地区からつつ川の流れに沿っていかり峠へ向かう谷間の入口にある。

もと村のうちで、慶長検地郷村帳に五二七・四二石「野村 野村之内発坂村」とある発坂村は本坂村のことである。寛文九年(一六六九)永井尚征が入部、野村から本坂村が分離、高付された。延宝三年郷村帳に五一・一一七石とあるが、延宝九年(一六八一)の延高で七九石余となった(天和元年宮津領村高帳)。享保二年(一七一七)以降は幕府領。幕末期の戸口は二二軒、一二八人(与謝郡誌)

村内にある八重垣やえがき神社はもと八大荒神と称したが、廃仏毀釈後現社名を名乗る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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