本江村(読み)ほんごうむら

日本歴史地名大系 「本江村」の解説

本江村
ほんごうむら

[現在地名]柳田村上町かんまち

町野まちの川支流の上町川が蛇行して流れ、東は合鹿ごうろく村、北は久田きゆうでん村。久亀屋くきや村とは耕地が入交じる。村内には和住わずみ(和隅)万関まんじき(満敷・万食)中又なかまた(中之又)たち谷内やち(蓼ヶ谷内・館ヶ谷内)谷内やち(江谷内)つぼうち(坪ノ口・坪ノ淵)山根やまねの字名があるという(鳳至郡誌)。このほか杉淵すぎぶち(重淵)も当村の字名とする説もあり、天坂てんざか村と入会っている。菅原すがわら神社蔵の嘉元三年(一三〇五)七月五日の鋳鉄製懸仏に「火宮大明神 馬志キ 本江久亀屋村」とある。応永三〇年(一四二三)八月一〇日の松田基秀売券(総持寺文書)によれば、月泉良印供養のための粥飯料として「町野庄和住村本郷領家五之田名」のうち四〇〇刈を五〇貫文で売寄進している。

本江村
ほんごうむら

[現在地名]富山市本郷ほんごう本郷西部ほんごうせいぶ本郷東部ほんごうとうぶ本郷中部ほんごうちゆうぶ本郷北部ほんごうほくぶ

鍛治かじ川とその支流新鍛治川の間にほぼ位置し、東は大塚おおつか村、北は中沖なかおき村。婦負郡寒江さぶえ郷に属し、寒江郷の本郷という意味から本郷村とも書く。寛永一六年(一六三九)以降富山藩領で、正保郷帳では高一千一五一石余、田方七一町七反余・畑方四町九反余。承応四年(一六五五)の村御印では草高一千二七三石余・免三ツ六歩二厘、二七人の給地が高の八割以上を占める。

本江村
ほんごうむら

[現在地名]羽咋市本江町

志々見しじみ村の東、碁石ごいしヶ峰西麓端の傾斜地に立地。本郷とも記す。内浦街道に沿う街村。垣内に若部わかべ寺境てらざかいがある。中世には若部保に属した。承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に「若部保」とみえ、もとは田三町八段であったが、同年の検注で一町に減少している。鎌倉末期には北条氏一門の名越兵庫入道が地頭で、田二四町一段、年貢米二五七石・銭三〇貫文(年月日未詳「若部保地頭職注文残簡」永光寺文書)。若部保は建武政権によって没収され、建武二年(一三三五)四月、永光ようこう寺に寄進された(同月二一日「能登国宣」同文書)

本江村
ほんごうむら

[現在地名]能都町本木ほんき

山田やまだ川の支流本江川(本郷川)流域に位置し、東は木住きずみ村など。上町かんまち川流域の本江村(現柳田村)に対して山本江とも記される。「三州志」や「三州地理志稿」に垣内として亀原かめはら中原なかはら高内畑こうないばた(高内畠)小杉こすぎ大原おおはら(小原)がみえる。本村は本江川下流部に位置し、上流にかけて中原・小杉・大原が並ぶ。南西端の曾山そやま峠付近を水源とするえだ川中流に高内畑があり、同川は本村付近で本江川に合流する。

本江村
ほんごうむら

[現在地名]福野町本江など

小矢部おやべ川とたび川の合流点右岸に位置し、南は野尻のじり村・岩武新いわたけしん村、東は野尻村。初め本江川原新ほんごうかわらしん村・本江出ほんごうで村も存在したが、明暦二年(一六五六)に村御印を下付された際に本江村一村となったとみられる(元禄一四年「村名由来書」川合家文書)。元和五年(一六一九)の家高新帳に本江とみえ、役家数二。正保郷帳では本江村は高一八七石余、田方一一町四反余・畑方一町、新田高一一六石余、ほかに本江川原新村がみえ、高二六八石余、田方一七町一反余・畑方七反。

本江村
ほんごうむら

[現在地名]輪島市三井町本江みいまちほんごう

渡合どあい村の東、河原田かわらだ川上流東岸の山間に立地。正保郷帳に村名がみえ、高三〇四石余、田方一六町八反余・畑方三町四反。承応三年(一六五四)の村御印の高三〇八石余、免四ツ七歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高三一九石、免五ツ五歩、小物成は山役一二一匁、炭竈役二六匁(退転)であった(三箇国高物成帳)

本江村
ほんごうむら

[現在地名]富山市本郷町ほんごうまち

富山城下の南方、いたち川左岸に位置し、北は本江下新村。亀谷かめがい往来が通る。本郷村とも記される。江戸初期は鼬川両岸の加賀藩太田本江おおたほんごう村のうちで、万治三年(一六六〇)の領地替で左岸が富山藩領となる。右岸の太田本江村に対し堀川本江ほりかわほんごう村、東本郷村に対し西本郷村と通称される。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では「太田本江村之内」として高一千六五石。寛政二年(一七九〇)の高物成品々手鏡では古高九五三石余・定免三ツ四歩、新田高九八石余・平均免八歩余、銀納畑四千七一一歩、定小物成銀は三五匁余。所属組は中屋なかや村と同じ。

本江村
ほんごうむら

[現在地名]大門町本江

なか村の南東、和田わだ川右岸に位置し、対岸は堀之内ほりのうち村。集落の中央を熊野くまの往来が南北に通る。集落は本田ほんでん村境近くにあり、村名は本郷とも書き、古代の射水郡三島みしま(和名抄)の中心地(本郷)からきているとされる(郷荘考)。ホンゴともよぶ。天正一一年(一五八三)八月二〇日佐々成政が家臣槻尾甚助に与えた知行方目録(水越家文書)に「千六百五俵所 中郡本郷村」「九百五拾俵之所 中郡之内本郷」とみえる。正保郷帳には本江村とあり、高四〇九石余、田方二六町六反余・畑方六反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によれば草高四三八石、免五ツ、ほかに同三―五年の新田高三七石があり、小物成は野役六二匁(三箇国高物成帳)

本江村
ほんごうむら

[現在地名]魚津市本江・文化町ぶんかまち本江新町ほんごうしんまち鴨川町かもがわまち双葉町ふたばちよう新宿しんじゆく

片貝かたかい川扇状地にあり、北は下村木しもむらき村・魚津町、西は魚津町、南は友道ともみち村。正保郷帳では高四八八石余、田方三一町五反余・畑方一町余、新田高一三〇石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高六二〇石・免五ツ六歩、明暦三年(一六五七)の新田高一石、小物成は山役二七匁(三箇国高物成帳)。奥村源左衛門(新川郡代)の下屋敷があるため一石の引高があり、天保一一年(一八四〇)の打銀高六二〇石(「高免帳」杉木家文書)

本江村
ほんごうむら

[現在地名]滑川市本江

上市かみいち川支流のごう川沿いに位置し、北東は安田新やすだしん村、西は寺町てらまち村。「越中志徴」によると、郷川は古くは本郷ほんごう(本江川)とよばれており村名の由来となったという。正保郷帳では高七三四石余、田方四六町三反余・畑方二町五反余、新田高五一石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高七〇二石、免四ツ七歩、小物成は山役二二七匁・蝋役八匁、鮎川役三匁(うち一匁は出来)、鮭役一三匁(退転)であった(三箇国高物成帳)。所属組は寺家じけい村と同じ。享保一八年(一七三三)の新川郡村廻帳(川合家文書)には「山其外駄賃等仕候」とあり、村肝煎は佐五兵衛で、家数四二(百姓三一・頭振一一)

本江村
ほんごうむら

[現在地名]小松市本江町

北は千木野せぎの村、西は南浅井みなみあさい村、東部は山地、西部は平坦地となる。もとは本郷とも記したという。慶長五年(一六〇〇)の浅井畷合戦の際、高山南坊が本江の山に立籠ったという(「成田家記」加越能文庫)。正保郷帳では高九六五石余、田方四三町二反余・畑方一三町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高九九〇石、免五ツ、小物成は山役二九六匁、畳表役三分(出来)であった(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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