本間太郎右衛門(読み)ほんまたろうえもん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「本間太郎右衛門」の意味・わかりやすい解説

本間太郎右衛門
ほんまたろうえもん
(1693―1752)

1750年(寛延3)佐渡(さど)の百姓一揆(いっき)の指導者。佐渡国雑太(さわた)郡山田村(新潟県佐渡市西部)に生まれ、長じて山田村名主となる。享保(きょうほう)(1716~36)のころ、佐渡奉行(ぶぎょう)所の新田奨励策を受け、川茂村の名主弥三右衛門(風間氏)と協力して国府川(こくふがわ)右岸荒地開墾に従事し、6町7反の畑を開き新村辰巳(たつみ)村(旧佐和田町)をたてた。1737年(元文2)のことである。その功労により佐渡263か村の肝煎(きもいり)7人名主の一人として重きをなしたが、煙草(たばこ)の二重課税に反対したことなどのために肝煎名主役を追われた。その後、48、49年(寛延1、2)と強行された8700石の年貢増徴に抗して直訴を企てた太郎右衛門は、50年の江戸越訴(おっそ)28か条の作成者、一揆の直接指導者として投獄され、52年(宝暦2)相川で斬(ざん)に処せられた。

[田中圭一]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「本間太郎右衛門」の解説

本間太郎右衛門

没年:宝暦2.7.18(1752.8.27)
生年元禄6(1693)
江戸時代中期の義民。幕領,佐渡国雑太郡山田村(新潟県佐和田町)の名主だったが,享保20(1735)年佐渡奉行所から新田開発の許可を得,元文2(1737)年下八幡村から辰巳村を分村成立させた。翌年家督を長男に譲って次男をともない辰巳村に移住。寛延1(1748)年,2年の年貢増徴を契機農民の不満が高まったため,太郎右衛門が中心となって年貢減免要求や奉行所の悪政など28カ条の訴状を起草,3年幕府勘定奉行へ直訴の惣代を送った。翌年2月再度太郎右衛門をはじめとする一国惣代21名連署で在勤佐渡奉行に訴状を提出。審議の結果,椎泊村(新潟県両津市)緒方弥次右衛門と共に死罪となったが,訴状の内容は新佐渡奉行松平忠隆の宝暦改革に活かされた。<参考文献>伊藤治一『佐渡義民伝』,『編年 百姓一揆史料集成』4巻

(大橋幸泰)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「本間太郎右衛門」の解説

本間太郎右衛門 ほんま-たろうえもん

1693-1752 江戸時代中期の農民。
元禄(げんろく)6年生まれ。佐渡(新潟県)雑太郡(さわたぐん)山田村の名主。奉行所の許可をえて国府川(こうのかわ)一帯の荒れ地を開拓,元文2年(1737)新村辰巳(たつみ)村を誕生させてうつりすむ。寛延の年貢増徴に対し28ヵ条の訴状を作成,総代を江戸におくって幕府にうったえさせた。首謀者として投獄され,宝暦2年7月18日刑死。60歳。名は貞蔵。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android