日本大百科全書(ニッポニカ) 「本間精一郎」の意味・わかりやすい解説
本間精一郎
ほんませいいちろう
(1834―1862)
幕末の草莽(そうもう)志士。天保(てんぽう)5年正月24日越後(えちご)(新潟県)寺泊(てらどまり)(現長岡(ながおか)市)の商家に生まれる。幼名精兵衛(せいべえ)、名は正高、字(あざな)は至誠(しせい)、号は不自欺斎(ふじぎさい)。1853年(嘉永6)江戸に上り幕臣川路聖謨(としあきら)の中小姓(ちゅうごしょう)となり、昌平黌(しょうへいこう)の安積艮斎(あさかごんさい)に学んだ。59年(安政6)川路に随行して西上したころから勤王活動を深め、安政(あんせい)の大獄で伏見(ふしみ)に入獄。出獄後、京を中心に活動し、青蓮院(しょうれんいん)宮家に出入りして諸国浪士と交わり、長州、四国、九州に遊説した。好んで長刀を帯び、言説は雄弁過激で同志の反感と誤解を買うこともあった。そのため文久(ぶんきゅう)2年閏(うるう)8月20日斬殺(ざんさつ)され四条河原に梟首(きょうしゅ)された。犯人は土佐藩士ともいう。長岡市寺泊地区に生誕地の碑がある。
[真水 淳]
『田中惣五郎著『北越草莽維新史』(1980・柏書房)』