本願寺跡(読み)ほんがんじあと

日本歴史地名大系 「本願寺跡」の解説

本願寺跡
ほんがんじあと

江戸初期、吉備津宮の社僧として最も勢力があった寺院。当時「吉備津宮別当本願寺」と称している(寛文三年「本願寺陳状写」真如院文書)寺地は今の吉備津神社境内のうち、旧社務所の地にあった。山号は昇竜山。天台宗。備前金山かなやま寺の末寺。中世以来、神宮寺の社僧らとともに、吉備津宮境内に元禄(一六八八―一七〇四)頃まで存在していた三重塔・求聞持堂・鐘楼・一切経堂などを差配、また江戸前期には会式小屋銀・神領山林・大祝詞・内陣諸務等を支配し、慶長一六年(一六一一)から社領朱印一六〇石のうちで四〇石の配当寺として、両部習合の法をもって社頭に奉仕した(慶安四年「本願寺陳状写」吉備津神社文書など)


本願寺跡
ほんがんじあと

[現在地名]梓川村大字梓 南北条

南北条みなみきたじよう城山の麓に真言宗真光しんこう寺末であった本願寺の釈迦堂がある。当堂には鎌倉時代の本尊釈迦如来像と地蔵菩薩像がある。口碑によれば往時は西牧氏の菩提寺で七堂伽藍を備えた寺であったが、天正一〇年(一五八二)小笠原勢のために焼き払われ、西牧氏の滅亡とともに荒廃したと伝えられている。慶安四年検地帳に、大門・どうやしき・観音堂・仁王堂等の地字がみられる。その後寛文四年(一六六四)に再興され、松本の安楽寺寺中広福院の看深を中興開山とし、寛文八年松本城主水野氏の上野組代官大岡久七の尽力によって小室御林より松一五本を元伐りして釈迦堂を建てている(北条古西牧氏蔵文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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