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葛尾城 かつらおじょう

日本の城がわかる事典の解説

かつらおじょう【葛尾城】

長野県埴科郡坂城町にあった山城(やまじろ)。戦国時代に北信濃の最大勢力だった村上義清の居城(本城)。千曲川に突き出た葛尾山(標高816.5m)の山頂の主曲輪(本丸)を中心に、南北に延びる尾根上に二の郭、三の郭と、さらに多くの小曲輪を配置した規模の大きな城であり、各曲輪は深い堀切で区切られていた。比高が高い山城(386m)として知られ、また、その出城である姫城(葛尾城主曲輪の南約800mの矢場佐間山の山頂にあった)と一体化した広大な縄張りを持つ城である。1392年(明徳3/元中9)に村上義次により築城されたとも伝わるが、築城時期は明らかではない。村上氏は南北朝時代末期に葛尾城附近を本拠としたと考えられている。義清は天文年間(1532~53年)の上田原の戦い、および戸石崩れで、甲斐の武田信虎および晴信(信玄)の2代にわたり武田氏を破った猛将だが、晴信配下の真田幸隆らの調略により勢力を削がれ、葛尾城は1553年(天文22)に武田勢により落城。義清は越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)のもとに逃れた。その後、義清は長尾氏の援軍を得て葛尾城を奪還したが、塩田城(上田市)に籠城した義清は武田氏の反攻にあって同城を脱出、その後行方不明になっている。義清の旧領回復は3ヵ月あまりで終わった。これをきっかけに、晴信と景虎の間に第一次川中島の合戦(布施の戦いあるいは八幡の戦い)が起こり、以来12年間、合計5次にわたる川中島の合戦が行われた。以後、川中島の合戦の記録などには葛尾城は登場しなくなる。戦略的な価値が薄れていったと考えられる。葛尾城が再び歴史に登場するのは1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの前夜で、徳川秀忠は上田城を本拠とする真田昌幸の攻撃に失敗した後、松代城の森忠政が葛尾城跡に兵を置いて昌幸の動向を監視した。これに対し、昌幸は葛尾城に夜襲をかけている。真田勢は本丸近くまで迫ったが落城に至らなかった。この戦いの後、葛尾城は廃城となった。城は関ヶ原合戦のころまで使われたので、現在残っている遺構は義清時代のままではないが、曲輪(くるわ)跡をはじめ土塁や尾根を切るようにつくられた堀切などの遺構が残っている。南の姫城跡や西側の尾根にも多くの山城遺構が残っている。また、姫城の麓の千曲川には笄(こうがい)の渡しと呼ばれるところがあり、公園になっている。ここは葛尾城が落城した際に、城を逃れた義清夫人などが対岸の荒砥城(千曲市)へ向かう際、船頭が対岸へ渡してくれたところとされている。また、そのお礼として、夫人が船頭に笄(かんざし)を渡したことが、この渡し場の名前の由来となっている。葛尾城登城口までは、しなの鉄道坂城駅から徒歩約10分。坂城神社から山頂に至る登山道(山頂まで約50分)が整備されているほか、同町和平地区から伸びる林道を使って山頂近くまで車で行くことができる。

出典|講談社日本の城がわかる事典について | 情報

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