日本大百科全書(ニッポニカ) 「村岡三郎」の意味・わかりやすい解説
村岡三郎
むらおかさぶろう
(1928―2013)
彫刻家。大阪府生まれ。1950年(昭和25)、大阪市立美術研究所彫刻部修了。1952年、二科展に初出品し、1954年の同展に出品した彫刻作品『1954年7月』が大きな反響を呼ぶ(この作品は、日本でもっとも早く制作された溶接彫刻作品とされている)。その後も1965年には日本現代彫刻展でK氏賞、1969年には同展で大賞を受賞するなど順調にキャリアを重ねるが、作品や問題意識は一美術団体の枠には収まりきらなくなり1969年には二科会を退会。また同年に秋山画廊(東京)と信濃橋画廊(大阪)で初個展を開催して独自の模索を始めた。
1960年代までの作品は情緒的なものや感傷的なものを排した、人体に似た構造体や人体の断片を髣髴(ほうふつ)させるものだったが、二科会から離れた1970年以降は、重力、熱、光や音などの根源的な物理現象の造形化に取り組み、1970年代末ごろからは塩、鉄、硫黄といった物質の熱変化を主題とした作品へと移行。さらに1980年代なかば以降には人体に見立てた酸素ボンベを活用し、呼吸や代謝の問題をも内部に組み込んだ作品を制作し、作品のバリエーションを広げた。1986年と1990年(平成2)の二度にわたって中国西域の崑崙(こんろん)南道を旅行するなど、西域に対して深い関心を寄せており、その関心は特に塩を用いた作品につながっている。海外での評価が高まったのは1980年代以降で、「ソウル・オリンピック芸術祭」(1988)、「ユーロパリア・ジャパン」展(1989、ヘント市美術館)、「コレクション・セレブレーション」展(1995、モントリオール現代美術国際センター)などに出品、また1990年のベネチア・ビエンナーレでは、日本館の代表作家の一人として選出されている(もう一人の代表作家は遠藤利克(としかつ))。1990年代以降は作品が大型化し、展示空間との緊張関係によって作品を成立させる傾向を強めたが、1997年に東京国立近代美術館で開催された近作展は、こうした傾向の集大成であった。
1981~1993年滋賀大学教育学部教授、1993~2002年京都精華大学芸術学部教授を歴任。1999年には毎日芸術賞を受賞している。2002年にはうらわ美術館で詩と美術のコラボレーションを行った。
[暮沢剛巳]
『「村岡三郎」(カタログ。1997・東京国立近代美術館)』