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村岡三郎 むらおかさぶろう

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百科事典マイペディアの解説

村岡三郎【むらおかさぶろう】

彫刻家。大阪市生れ。大阪市立美術研究所修了。1955年二科展特選となる。1969年初個展。鉄や鉛,酸素といった物質と気体との組合せによる,日常の空間を異化させる立体作品を展開。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

村岡三郎 むらおか-さぶろう

1928-2013 昭和後期-平成時代の彫刻家。
昭和3年6月25日生まれ。大阪市立美術研究所にまなぶ。昭和30年朝日秀作美術展に出品。40年現代日本彫刻展でK氏賞を受賞。56年滋賀大教授,のち京都精華大教授。平成2年ベネチア-ビエンナーレに出品。11年毎日芸術賞受賞。鉄や鉛などをもちいた金属彫刻などにとりくんだ。平成25年7月3日死去。85歳。大阪府出身。作品に「1954年7月」「アイアンブック」,シリーズ「熔断」など。

出典|講談社
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

村岡三郎
むらおかさぶろう
(1928―2013)

彫刻家。大阪府生まれ。1950年(昭和25)、大阪市立美術研究所彫刻部修了。1952年、二科展に初出品し、1954年の同展に出品した彫刻作品『1954年7月』が大きな反響を呼ぶ(この作品は、日本でもっとも早く制作された溶接彫刻作品とされている)。その後も1965年には日本現代彫刻展でK氏賞、1969年には同展で大賞を受賞するなど順調にキャリアを重ねるが、作品や問題意識は一美術団体の枠には収まりきらなくなり1969年には二科会を退会。また同年に秋山画廊(東京)と信濃橋画廊(大阪)で初個展を開催して独自の模索を始めた。
 1960年代までの作品は情緒的なものや感傷的なものを排した、人体に似た構造体や人体の断片を髣髴(ほうふつ)させるものだったが、二科会から離れた1970年以降は、重力、熱、光や音などの根源的な物理現象の造形化に取り組み、1970年代末ごろからは塩、鉄、硫黄といった物質の熱変化を主題とした作品へと移行。さらに1980年代なかば以降には人体に見立てた酸素ボンベを活用し、呼吸や代謝の問題をも内部に組み込んだ作品を制作し、作品のバリエーションを広げた。1986年と1990年(平成2)の二度にわたって中国西域の崑崙(こんろん)南道を旅行するなど、西域に対して深い関心を寄せており、その関心は特に塩を用いた作品につながっている。海外での評価が高まったのは1980年代以降で、「ソウル・オリンピック芸術祭」(1988)、「ユーロパリア・ジャパン」展(1989、ヘント市美術館)、「コレクション・セレブレーション」展(1995、モントリオール現代美術国際センター)などに出品、また1990年のベネチア・ビエンナーレでは、日本館の代表作家の一人として選出されている(もう一人の代表作家は遠藤利克(としかつ))。1990年代以降は作品が大型化し、展示空間との緊張関係によって作品を成立させる傾向を強めたが、1997年に東京国立近代美術館で開催された近作展は、こうした傾向の集大成であった。
 1981~1993年滋賀大学教育学部教授、1993~2002年京都精華大学芸術学部教授を歴任。1999年には毎日芸術賞を受賞している。2002年にはうらわ美術館で詩と美術のコラボレーションを行った。[暮沢剛巳]
『「村岡三郎」(カタログ。1997・東京国立近代美術館)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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