二科会(読み)ニカカイ

デジタル大辞泉 「二科会」の意味・読み・例文・類語

にか‐かい〔ニクワクワイ〕【二科会】

美術団体。大正3年(1914)文展洋画部に第二科設置を建議していれられなかった石井柏亭いしいはくてい津田青楓つだせいふうらが創設。昭和19年(1944)戦争のため一時解散。戦後、東郷青児を中心に再結成され、昭和54年(1979)社団法人となる。現在は絵画部・彫刻部・デザイン部・写真部があり、毎年秋に公募展を開催する。平成24年(2012)公益社団法人に移行。

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精選版 日本国語大辞典 「二科会」の意味・読み・例文・類語

にか‐かいニクヮクヮイ【二科会】

  1. 美術団体。大正三年(一九一四)設立。文展洋画部に革新絵画の第二科設置を建議していれられなかった石井柏亭有島生馬梅原龍三郎らが結成。第二次世界大戦中一時解散、戦後東郷青児、鈴木信太郎らが再建した。毎年秋、公募展を主催する。

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百科事典マイペディア 「二科会」の意味・わかりやすい解説

二科会【にかかい】

美術団体。1914年有島生馬山下新太郎石井柏亭ら新傾向を目ざす洋画家文展を離脱して結成。1919年藤川勇造を迎えて彫刻部を設置。1944年前衛的団体として官憲から圧迫され,解散させられたが,戦後1945年に再興,工芸部,理論部,漫画部,商業美術部,写真部を設け,総合的な美術団体となった。毎年秋公募展を開催。
→関連項目一陽会一水会梅原竜三郎岡本太郎官展北川民次熊谷守一行動美術協会児島善三郎斎藤義重佐伯祐三坂本繁二郎里見勝蔵関根正二野田英夫長谷川利行林武藤田嗣治正宗得三郎松本竣介安井曾太郎淀井敏夫万鉄五郎

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「二科会」の意味・わかりやすい解説

二科会
にかかい

美術団体。1914年(大正3)新帰朝の洋画家が中心となって、文展洋画部に審査における新旧二科制の設置を要望したが、文部省はこの願いを受け入れなかった。そこで、これを不満とした新傾向作家の石井柏亭(はくてい)、有島生馬(ありしまいくま)、梅原龍三郎(りゅうざぶろう)らが文展を離れて結成したもので、同年10月第1回展を開催。以後積極的に海外の動向を紹介する一方新進作家の発掘育成に努め、また19年には彫刻部を新設、文展と対抗する有力な在野団体へと成長していった。だが、創立当初より会員の移動も頻繁で、30年(昭和5)に独立美術協会が、36年に一水(いっすい)会が、分派独立している。そして44年、戦争のため一時解散、戦後の45年(昭和20)東郷青児(せいじ)らを中心に再組織され、46年9月第31回展を開催した。この前後にも行動美術協会、二紀会の結成による分裂があり、55年には一陽会の派生をみた。なお、戦後は団体としての組織拡大が計られ、45年に工芸部、理論部を、51年に漫画部、商業美術部を、さらに53年には写真部を設け、79年には社団法人組織となった。毎年9月に公募展を開催するほか、海外美術の紹介と同時に海外巡回展を行うなど、国際化への積極的対応を示している。だが一方、1914年の創立から長い年月が経過し、しだいに当初の革新的性格が薄れてきたとの声も聞かれる。

[佐伯英里子]

『サンケイ新聞大阪本社編・刊『二科回顧展』(1985)』

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改訂新版 世界大百科事典 「二科会」の意味・わかりやすい解説

二科会 (にかかい)

美術団体。1914年(大正3)10月,石井柏亭,津田青楓,梅原竜三郎,山下新太郎,小杉未醒,有島生馬,斎藤豊作,坂本繁二郎,湯浅一郎によって結成された。印象派以後の新傾向をめざす彼らは,文展の審査で不利な立場にあり,新派,旧派で2科に分ける第1部(日本画)の制に洋画部も倣うよう当局に求めたがいれられず,在野として独立することに決したものである。結成と同時に上野竹之台で第1回展を開き,好評を得た。以後,大正期を通じ,安井曾太郎,森田恒友,正宗得三郎,熊谷守一,中川紀元小出楢重,藤川勇造,ロートAndré Lhote,ビュシエールRoger Bussièreらを会員に加え新傾向の団体として活動し,万鉄五郎や関根正二もこの会で活躍した。しかしまた,ここに安易な西洋模倣の風が生じたのも事実である。会員の出入が多く,昭和に入って独立美術協会と一水会,戦後,行動美術協会,二紀会,一陽会が分立した。絵画部,彫刻部,写真部,商業美術部(現,デザイン部)を擁し,毎年秋,東京都美術館と上野の森美術館で公募展を開催している(2007年より国立新美術館で開催)。
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山川 日本史小辞典 改訂新版 「二科会」の解説

二科会
にかかい

1914年(大正3)結成された美術団体。同年に文展第2部(洋画)を第1部(日本画)と同じように新旧の2科にわける運動がおこったが,実現しなかったため在野の美術団体として結成した。石井柏亭(はくてい)・梅原竜三郎・有島生馬(いくま)・坂本繁二郎らをはじめ,新傾向の作家が数多く参加し,洋画界の代表的な団体となる。会員の出入りが多く,分離独立して結成された美術団体に,30年(昭和5)の独立美術協会,36年の一水会,38年の九室会,45年の行動美術協会,47年の第二紀会(53年,二紀会と改称),55年の一陽会などがある。19年に彫刻部,45年に工芸部・理論部,51年に漫画部・商業美術部,53年に写真部が新設されたが,現在は絵画部・彫刻部・商業美術部・写真部の4部からなり,毎年秋に公募展を開催している。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「二科会」の意味・わかりやすい解説

二科会
にかかい

美術団体。文展 (→官展 ) 第2部 (洋画) の二科制設置の建議を文部当局に拒否され,文展を脱退した石井柏亭,坂本繁二郎,梅原龍三郎,小杉放庵ら 11名によって 1914年に結成。同年 10月の第1回展以来,会員に変動をみせながらも常に新傾向の作家を吸収して,毎年秋季に展覧会を開催。 19年彫刻部を設置,44年戦争のため一時解散したが,翌年東郷青児を中心として再建。新たに工芸部,写真部,漫画部,商業美術部を設置,多角的な展覧会を開き今日にいたっている。

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旺文社日本史事典 三訂版 「二科会」の解説

二科会
にかかい

大正・昭和期の洋画を中心とする在野美術団体
文展洋画部に一科(旧派)・二科(新派)の分設を要求して拒否された有島生馬 (いくま) ・石井柏亭らが,1914年に独立の在野団体を組織。公募展を開き当時の革新的傾向を結集した。'30年独立美術協会,'36年一水会が分離し,戦時下の圧迫で '44年解散。第二次世界大戦後,'45年東郷青児らが再建し現在に至る。

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世界大百科事典(旧版)内の二科会の言及

【明治・大正時代美術】より

…一方,文展内部でも,印象派や後期印象派の移植とともに,旧態依然の文展への不満がたかまって,前年の日本画部で採用されたのと同じく,洋画部の審査も画風の新旧による二科制とすべし,との要求が新人洋画家たちによって出される。この要求はアカデミズムの総帥黒田清輝によって一蹴され,日本画部の二科制も旧に復してしまうが,二科運動の名をそのままとって,反アカデミズム,反官設展をかかげる在野の美術団体二科会が結成された。芸術表現における画家の人格=自我の優越を主張する個性主義的な芸術は,まず二科会によって強力に実践されることになった。…

※「二科会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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