来迎寺村(読み)らいこうじむら

日本歴史地名大系 「来迎寺村」の解説

来迎寺村
らいこうじむら

[現在地名]知立市来迎寺町

東海道沿いの小街村。南は猿渡さわたり川をもっていま(現安城市)と境し、西は牛田うしだ村に接する。来迎寺縁起には「承平元年宇治平等院から、来迎院法印という僧、来りてここに草庵を結び結界す。寺門栄えて村名となる」と村名の由来を記す。集落をなしたのは中世末期頃で、寺の再興は慶長年間(一五九六―一六一五)と寺伝にいう。

寛永一二年(一六三五)の石高帳にはその名が載り、一七五石余の村高となっている。寛政四年(一七九二)福島藩領となった時の村高九三石二斗九升九合、このうち新田高八石八斗二升、幕末まで変わらない。

来迎寺村
らいごうじむら

[現在地名]佐賀金立町きんりゆうまち大字金立かなたて字来迎寺

文化一四年(一八一七)の郷村帳によると若宮原・野田・黒土原・町田、それに北の山中の大小野までを含む広大な地域で、山林原野が多い。山麓には灌漑用の堤が多く、この用水を利用して水田が南に開けている。「葉隠」によると「来迎寺村は白水しろうず村と申し候。寺これある故唱へ替へ申し候」とある。正保絵図に村名がみえる。藩政期には佐賀本藩の蔵入地で、天保九年(一八三八)の地米(年貢)高は二四四石一斗六升四合。水田が少ないこともあって植木や正月の注連縄飾などの副業が盛んで、柿・蜜柑・櫨・茶・養蚕も盛んであった。第二次世界大戦時まで山麓には佐賀連隊の射撃場があった。

来迎寺村
らいこうじむら

[現在地名]村大字来迎寺

小山戸おやまと村北方の小村。地名は村域内の来迎寺による。中世の南殿みなみとの庄に属する。東山中ひがしさんちゆうの窪・白石・鞆田・甲岡・北・吐山の諸氏は多田氏を中心として水分みくまり社・来迎寺・染田そめだ天神講を通じて相提携し、擾乱闘争の間にあってもよく統括されていた。とくに来迎寺の僧西念は室生竜穴を信仰し、雨乞修法(俗に「西念さん」という)に通じ、東山中各寺に十三重石塔婆を建立したという。

来迎寺村
らいこうじむら

[現在地名]越路町来迎寺

越路原こしじはら丘陵のうちの来迎寺原らいこうじはら台地北端東麓にある。東はうら村。地名は中世の阿弥陀信仰による寺院の名残をとどめるが、寺院跡などの存在は確認されていない。口碑によると、弘治年中(一五五五―五八)には家数一七あったと伝える(明治一〇年「古記案」永井家文書)正保国絵図に三島郡「来迎寺村」高四八〇石余がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報