東坂本村(読み)ひがしさかもとむら

日本歴史地名大系 「東坂本村」の解説

東坂本村
ひがしさかもとむら

[現在地名]飯山町東坂元ひがしさかもと

川原かわはら村の北から東に位置する。北東境に(四六二メートル)があってその南西麓丘陵が北東部一帯に延びる。北西境には讃岐富士と称される飯野いいの山があり、その東麓を大束だいそく川とその支流台目だいもく川が流れ、その流域に平地が広がっている。中央部を府中ふちゆう(現坂出市)から金毘羅に向かう道が通る。坂元とも記した。古代の鵜足うた坂本さかもと(和名抄)の遺称地。古代の坂本郷には製鉄技術をもった集団が存在したが、この系譜を引く人々が近世まで当地青石あおいし周辺に居住していたという。青石にかねの宮と称される社が現存し、鋳物師原いもじはらの地名が残り、一帯から鉄屑が出土している。戦国時代に三谷氏の居城であった三谷みたに城があった。

寛永国絵図では坂本郷とあり、ほかに坂本を冠した八村(三池・鋳物師原・三谷・坂・楠見・真時・国持・高柳・木村)をも含む坂本郷の高は二千七九五石余。


東坂本村
ひがしさかもとむら

[現在地名]姫路市書写しよしや

飾西しきさい郡に所属。夢前ゆめさき川右岸に位置し、北の山麓に書写山円教えんぎよう寺がある。同寺の東の参道の登り口にあたる。中世は坂本(坂元)のうちに含まれていたが、当時から東坂本・西坂本の地名がみえる。正安二年(一三〇〇)撰の性空上人伝記遺続集(円教寺蔵)によると、寛和二年(九八六)七月二七日に花山法皇が「東坂本茂利寺」(天平勝宝年中の行基の開基と伝える)に行幸している。元弘三年(一三三三)五月二六日、隠岐を脱出した後醍醐天皇千本せんぼん宿(現新宮町)に到着し、同日これを迎えるため関白近衛殿が坂本に到着、東坂本の和気大学入道の宿所に入っている(「書写山行幸記」群書類従)。「蔭涼軒日録」長享二年(一四八八)八月二日条によると、「坂本近所」に細工所があり、今も当地内に農業用水を優先して取水する細工所田さいくしよだの地がある。

慶長国絵図に「東坂本」と「西坂本」がみえる。


東坂本村
ひがしさかもとむら

[現在地名]岩出町東坂本

西国分にしこくぶ村の北西にある。村内をほぼ東西に淡島街道が通り、小田井おだい用水が通じる。「続風土記」は「西阪本に対せる名にて根嶺へ東の方より登る麓なるを以て名とす」と記す。根嶺は根来ねごろ寺をさす。

慶長検地高目録によれば村高四五八石余、小物成三石三斗八升四合。岩出組に属し、文化四年(一八〇七)の岩出組指出帳(藤田家蔵)によると田二四町三反余で高四一二石余、畠四町四反余で高五〇石余。二歩米は九石二斗六升二合八勺で、この銀五五五匁七分七厘、御種借米は元米一八石五斗二升六合で、この利米三石七斗五合二勺。家数四二で内訳は庄屋・肝煎・歩行各一、本役一二、半役一五、無役一二、人数一七五(男九〇・女八五)、牛一二。蜜柑・米・麦・菜種・粟・黍・蕎麦・大豆・小豆・蚕豆・木綿・胡麻などを作り、余業として男は山稼、女は売木綿を作った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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