日本歴史地名大系 「東坂本村」の解説
東坂本村
ひがしさかもとむら
寛永国絵図では坂本郷とあり、ほかに坂本を冠した八村(三池・鋳物師原・三谷・坂・楠見・真時・国持・高柳・木村)をも含む坂本郷の高は二千七九五石余。
東坂本村
ひがしさかもとむら
慶長国絵図に「東坂本」と「西坂本」がみえる。
東坂本村
ひがしさかもとむら
慶長検地高目録によれば村高四五八石余、小物成三石三斗八升四合。岩出組に属し、文化四年(一八〇七)の岩出組指出帳(藤田家蔵)によると田二四町三反余で高四一二石余、畠四町四反余で高五〇石余。二歩米は九石二斗六升二合八勺で、この銀五五五匁七分七厘、御種借米は元米一八石五斗二升六合で、この利米三石七斗五合二勺。家数四二で内訳は庄屋・肝煎・歩行各一、本役一二、半役一五、無役一二、人数一七五(男九〇・女八五)、牛一二。蜜柑・米・麦・菜種・粟・黍・蕎麦・大豆・小豆・蚕豆・木綿・胡麻などを作り、余業として男は山稼、女は売木綿を作った。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報