日本歴史地名大系 「東大窪村」の解説
東大窪村
ひがしおおくぼむら
南北に長く、北部は
近世初期まで西大窪村とともに大窪村として把握され、文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一千一九七石余。近世初期の邑鑑でも大窪村として免二ツ五分、家数五五(役家一九、肝煎・小走五、諸職人・寺・山伏・脇家三一)、人数一三六、役木として桑・楮がある。寛文元年(一六六一)の伊達信夫宗旨改人数帳(桑折町史)も大窪村として男一六九・女一一六。東西に分れたのは、同四年頃とみられ、東大窪村の米沢藩領時代の古高八六八石余、幕府検地による新高七四五石余(古高新高帳)。天和二年(一六八二)幕府領となる。元禄一三年(一七〇〇)桑折藩領(御私領)と幕府領(御領)に分割された。
東大窪村
ひがしおおくぼむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報