東大窪村(読み)ひがしおおくぼむら

日本歴史地名大系 「東大窪村」の解説

東大窪村
ひがしおおくぼむら

[現在地名]国見町高城たかぎ

南北に長く、北部厚樫あつかし山の裾野にあたり、南部は平地。北部より流れる牛沢うしざわ(旧貝田川)は村中央部で流れを変え、西の西大窪村との境を流れる。また西根上にしねうわ堰が東流する。北は貝田かいだ村、南は西大枝にしおおえだ村、東は光明寺こうみようじ村。南部の平地には、平安時代初め頃と推定される条里の遺構が近年まで残されていた。天文七年(一五三八)の段銭古帳に、伊達西根だてにしねのうちとして「おほくほ」とみえ、段銭は七貫八三五文。弘治三年(一五五七)八月吉日の梁川八幡宮祭礼規式写(関根文書)大窪とみえ、別に西大窪もみえるので、大窪は東大窪のことと考えられる。当地には大窪氏が居住したとみられ、天文二二年の晴宗公采地下賜録にみえる大窪亀千代・大窪平六は一族とみられる。安政三年(一八五六)の東大窪村古料の村絵図(高城区文書)には周囲に堀がある方形の館跡がみえ、現在もその形態がよく残されている。

近世初期まで西大窪村とともに大窪村として把握され、文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高一千一九七石余。近世初期の邑鑑でも大窪村として免二ツ五分、家数五五(役家一九、肝煎・小走五、諸職人・寺・山伏・脇家三一)、人数一三六、役木として桑・楮がある。寛文元年(一六六一)の伊達信夫宗旨改人数帳(桑折町史)も大窪村として男一六九・女一一六。東西に分れたのは、同四年頃とみられ、東大窪村の米沢藩領時代の古高八六八石余、幕府検地による新高七四五石余(古高新高帳)。天和二年(一六八二)幕府領となる。元禄一三年(一七〇〇)桑折藩領(御私領)と幕府領(御領)に分割された。


東大窪村
ひがしおおくぼむら

[現在地名]田主丸町八幡やわた

大窪村の東に位置する。元禄国絵図に大窪村のうち東大窪村とみえるが高の記載はない。「在方諸覚書」では古高八五石・役高一二〇石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦六石九斗余・小麦四石二斗・菜種二石七斗余(「本地夏物成帳」中村家文書)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高一二四石、文化四年(一八〇七)畝付帳では本畑田三町四反余・畑六町余・居屋敷一反余、ほかに開畑田二反余・開藪一反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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