日本歴史地名大系 「大窪村」の解説
大窪村
おおくぼむら
- 富山県:氷見市
- 大窪村
東は
大窪村
おおくぼむら
- 宮崎県:日南市
- 大窪村
大窪村
おおくぼむら
大窪村
おおくぼむら
- 新潟県:柏崎市
- 大窪村
近世は松平忠輝以来高田藩領。天和元年(一六八一)より寛保二年(一七四二)まで幕府領。元禄元年(一六八八)より享保八年(一七二三)まで陣屋があり代官が常詰、同九年より長岡藩預領。寛保二年白河藩領。文政六年(一八二三)に白河藩は
大窪村
おおくぼむら
大窪村
おおくぼむら
境川の最上流域に位置し、地内は山地が過半を占め流域に沿って南北に長く延びる。南は
大窪村
おおくぼむら
大窪村
おおくぼむら
- 兵庫県:明石市
- 大窪村
大窪村
おおくぼむら
- 大阪府:八尾市
- 大窪村
大窪村
おおくぼむら
- 熊本県:熊本市
- 大窪村
慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では、田方一二町八反余・畠方七町八反余、分米二〇二石二斗余とあり、神主が屋敷八畝と田畠九反一畝をもつ。
大窪村
おおくぼむら
大窪村
おおくぼむら
大窪村
おおくぼむら
大窪村
おおくぼむら
大窪村
おおくぼむら
- 佐賀県:伊万里市
- 大窪村
標高五九七メートルの
「東山代村誌」に村の消滅を「東大久保は昔折田村と称し、今の字折田に在りしが、(中略)地すべりのため全村大災害を蒙りしかば(内数戸は人畜共に深く埋没せしと云ふ、発掘の跡今に存せり)一部は里に移り、一部は字浦丸谷に転じ現今東大久保と称せり」と記す。
大窪村
おおくぼむら
北流する吉野川の左岸、阿波国境に位置する山村。「土佐州郡志」は「大砂子村ノ東、東西十五町南北二十三町」と記す。「大久保」とも記す。天文二四年(一五五五)五月八日付の中村豊楽寺鐘勧進帳(蠧簡集)に「北地九名」の一としてみえる。天正一六年(一五八八)の豊永地検帳に「大窪名」とみえ、検地面積五町五反一九代一歩、うち田分二町一二代、畠分二町四反一四代、屋敷一七・堂床(薬師堂)一で一町四三代一歩。堂床のほかは公事分と名本分からなる。
延享二年(一七四五)の豊永郷差出控(大家家蔵)によれば総地高一三一石余、うち本田高五五石余、新田高七六石余。本田のうち蔵入地四七石余、残りは桑名源七ほか一名の給田。
大窪村
おおくぼむら
大窪村
おおくぼむら
大窪村
おおくぼむら
大窪村
おおくぼむら
大窪村
おおくぼむら
大窪村
おおくぼむら
大窪村
おおくぼむら
大窪村
おおくぼむら
- 熊本県:水俣市
- 大窪村
大窪村
おおくぼむら
大窪村
おおくぼむら
大窪村
おおくぼむら
大窪村
おおくぼむら
大窪村
おおくぼむら
大窪村
おおくぼむら
大窪村
おおくぼむら
- 長崎県:佐世保市
- 大窪村
柚木村の中央部北側にあり、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報