東富田村(読み)ひがしとみだむら

日本歴史地名大系 「東富田村」の解説

東富田村
ひがしとみだむら

[現在地名]四日市富田とみだ一―四丁目・東富田町・松原まつばら

富田一色とみだいつしきの西、東海道に沿って民家が並ぶ。北西には西富田村、南のきた村とは家並続きであった。富田の地名は「吾妻鏡」文治三年(一一八七)四月二九日条に載せる公卿勅使伊勢国駅家雑事勤否散状に「冨田庄院御領 工藤左衛門尉助経知行」とみえる。工藤助経は地頭と考えられる。また元久元年(一二〇四)の九条兼実置文(九条家文書)には女院庁分御領として「富田御厨」が出る。この両者の関係については不明。元暦元年(一一八四)七月伊賀国で平氏与党が蜂起し、大内惟義によって討たれたが、その張本四人のなかに富田進士家助の名がある。さらに元久元年のいわゆる三日平氏の乱に際して「朝明郡富田之館」に拠る進士三郎基度は弟松本三郎盛光・同四郎・同九郎らとともに平賀朝雅によって誅された(吾妻鏡)。おそらくこの地は伊勢平氏の拠点の一つであったのであろう。


東富田村
ひがしとみだむら

[現在地名]本庄市東富田など

本庄台地の末端に位置し、浅見山あざみやま(大久保山)丘陵から北へ細長く延びる村で、東は北堀きたぼり村。丘陵の北麓に男堀おとこぼり川と水田地帯、その北の微高地上に集落があり、その北を女堀おんなぼり川が東流する。中世には富田村・富田郷と称したとみられ、中世末期頃には当村と西富田村とに分村していたと考えられる。「鎌倉大草紙」によると、文明九年(一四七七)五月頃山内・扇谷両上杉勢は、反旗を翻した長尾景春の籠る鉢形はちがた(現寄居町)を攻めるため富田などに陣を敷いている。天正一八年(一五九〇)四月二六日には、信茂が「両富田之村」などを鈴木某に与えた(「信茂判物」鈴木文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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