ニコライ1世(その他表記)Nikolai Ⅰ Pavlovich

改訂新版 世界大百科事典 「ニコライ1世」の意味・わかりやすい解説

ニコライ[1世]
Nikolai Ⅰ Pavlovich
生没年:1796-1855

ロシア皇帝在位1825-55年。パーベル1世の第三子。1825年11月の長兄アレクサンドル1世の急死後,次兄コンスタンティンが帝位継承の辞退を表明したために,デカブリスト反乱という騒然とした状況のなかで即位した。理想家肌でナイーブな性格の兄アレクサンドルとは違って,目的を実務的かつ厳格に追求する強固な意志をもち,専制を革命から守るために警察国家体制を確立した典型的な専制君主である。軍隊式の厳格な規律服従好み,〈余は人間生活全体を軍務とみなす〉と語ったといわれる。プロイセン出身の皇后アレクサンドラとの間に,のちの〈解放皇帝〉アレクサンドル2世をはじめ7子をもうけた。

 内政の面では,デカブリストの反乱の鎮圧を手はじめに,まず専制体制の維持を目的とする一連の治安行政政策をうちだした。すなわち26年,反政府的思想や組織活動を取り締まるために検閲制度を強化し,皇帝直属の秘密政治警察として〈第三部〉を創設した。28年の学校令で〈正教,専制,民族性〉が教育三原則とされ,33年には〈ロシアへの新思想の流入を防ぐ〉ことを教育の目的と公言するS.S.ウバーロフが文部大臣となり,大学は自治を奪われ,神学と教会史が全学部の必須課目となり,モスクワ大学の哲学の講座は廃止された。さらにニコライスペランスキーに命じて法典を集成・整備させるとともに(1830年の〈ロシア帝国法律大全〉,33年の〈ロシア帝国法典〉),45年には反政府的国事犯罪の範囲を拡大する新刑法を公布した。こうして治安,教育行政,司法をひきしめるとともに,国内の騒擾(そうじよう)のおもな原因であった農民問題を農奴制の枠内で解決しようとした。しかし彼の側近のP.D.キセリョフが提案した国有地農民に対する行政改革(1837-41),〈義務農民(土地利用の代償として地主に貢納もしくは賦役の義務を負う農民)〉に関する勅令(1842)は,いずれも期待されたほどの効果をあげえなかった。

 対外政策の面では,ニコライの第1の目標は,ヨーロッパにおける革命運動を鎮圧すること,つまり〈ヨーロッパの憲兵〉の役割を果たすことであった。33年にはプロイセン,オーストリアの君主と同盟し,48年のフランスの二月革命の際には共和制フランスと断交し,ライン川を越えて干渉する計画をたて,30万~40万の大軍を西部国境に集結させた。49年ハンガリーの革命軍が優勢となると,オーストリアの要請によってロシア軍をハンガリーに派遣し,8月に革命軍を鎮圧した。外交の第2の目標は南下政策を推進して,中近東バルカン半島におけるロシアの影響力を拡大することであった。しかし,この政策はイギリス,フランス,トルコを敵とするクリミア戦争をひき起こし,ニコライは不利な戦況に心を痛めつつ55年3月急死した。彼の30年に及ぶ治世は専制の反動的再編成の時期であり,その政治は西ヨーロッパに対するロシアの立遅れを決定的にした。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ニコライ1世」の意味・わかりやすい解説

ニコライ1世
ニコライいっせい
Nikolai I Pavlovich

[生]1796.7.6. ツァールスコエセロ
[没]1855.3.2. ペテルブルグ
ロシア皇帝 (在位 1825~55) 。パーベル1世の第3子。 1825年 12月兄アレクサンドル1世の突然の死後即位。即位当日首都でデカブリストの乱が起り,彼の治世はその鎮圧とともに始った。ニコライの国内政治は,文相 S.ウワーロフの提唱した「正教,専制,民族性」の三位一体のスローガンに表現されるように反動的なものであったが,事実その治世は専制君主制が最も強化された時期で,軍隊と官僚制はかつてない規模に達し,軍隊的秩序が社会のあらゆる分野に貫徹。官房には「第3課 (政治警察) 」が設置され,ペトラシェフスキー団,キュリロス=メトディオス協会など,あらゆる反体制組織が弾圧された。文学活動もきびしい検閲のもとにおかれ,プーシキン,レールモントフらすぐれた作家がニコライの専制の犠牲となった。またカフカス (コーカサス) におけるシャミルの運動,ポーランド人の蜂起 (30~31) などを鎮圧し,非ロシア民族のロシア化とキリスト教化を強行し,分離派を圧迫した。他方,改革がまったく行われなかったわけではなく,M.M.スペランスキーの『ロシア帝国法律大全』 (30) や『ロシア帝国法典』 (32) の編纂,P.D.キセリョーフの国有地農民行政の改革 (37~41) ,E.F.カンクリンの幣制改革 (39~43) などがみられたが,農奴制の漸進的撤廃案 (35) が地主貴族らの反対によって撤回させられるなど不徹底に終った。外交面では,K.ネッセルローデを登用して,オーストリア皇帝やプロシア王とともに「神聖同盟」の復活をねらい,48年2月パリに革命が起ると,フランスと国交を断絶,49年にはハンガリー蜂起を弾圧して革命の波及を防ぐなど,「ヨーロッパの憲兵」としての役割を発揮した。その治世中ロシアの勢力は中央アジア,近東,カザフスタンにも及んだが,黒海,バルカン半島への進出をねらって,トルコ,イギリス,フランスと対立,国際的孤立の状態で 53年クリミア戦争に突入,敗色濃厚のさなか病没した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ニコライ1世」の解説

ニコライ1世(ニコライいっせい)
Nikolai Ⅰ

1796~1855(在位1825~55)

ロシア皇帝。アレクサンドル1世の弟。デカブリストの乱鎮圧をもって治世を始め,強権をもって体制の建て直しを図った。秘密警察,皇帝直属官房第三部をつくる一方,改革を検討する12月6日委員会を設けてスペランスキーを加えた。成果は法全書の編纂である。法専門家要請の法律学校も設立された。工業の振興にも努力し,国有地農民の改革がなされた。1848年の革命の際には「ヨーロッパの憲兵」として働いた。ついにはクリミア戦争を引き起こし,敗戦のなか急死した。

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367日誕生日大事典 「ニコライ1世」の解説

ニコライ1世

生年月日:1796年7月7日
ロシアの皇帝(在位1825〜55)
1855年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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