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1798年5月19日、南フランスを出帆したナポレオンの軍事行動をさす。遠征の動機は、ナポレオン個人の東方に対する夢と野望もあったが、エジプトを制することにより、インドに特殊利害をもつイギリスをからめ手から牽制(けんせい)する点にあった。遠征軍は33隻の艦隊、200艘(そう)余の輸送船団からなり、3万余の陸兵と167名の学者、技術家を乗せ、地中海を東に進んだ。6月10日マルタ島に上陸。同島を占領後、7月初めアレクサンドリアに陸揚げし、首都カイロに向け進軍。現地のマムルーク騎兵の激しい抵抗を受けたが、火砲の威力で打破し、7月21日ナイル河畔の都カイロに入城。ただちに軍事政権を樹立した。ナポレオンは現地人に宥和(ゆうわ)政策を約し、イスラム教を公認し、トルコの圧制を排して人民の解放と近代化を推進した。が、入城後まもなくアブキール湾でイギリスのネルソン艦隊にフランス海軍が撃滅されたため、本国との連絡を失い、孤立を余儀なくされた。翌99年2月、ナポレオンはシリア遠征の途につく。目ざすは南下を計画するトルコの要衝を突く点にあった。ナポレオン軍は水の欠乏とペストに苦しみつつ、ハイファに進み、アルクを攻撃してならず、むなしくエジプトに帰還した。勢いに乗ったトルコ軍は、7月アブキール湾に上陸したが、フランス軍により撃滅された。99年8月末、ナポレオンは単独でエジプトを離れ、本国に帰還する。遠征軍は取り残された形で、軍事行動は成功しなかったが、同行した学者の手でやがてエジプト学や古代東方の文物の研究が進められることにはなる。なかでも一将校が発見したロゼッタ石から、エジプト文字の解読がシャンポリオンによりなされ、大きな貢献を後世に残した。
[金澤 誠]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
イギリスのアジアへの通商路を遮断するため,ナポレオン率いるフランス軍が1798年に実施した軍事遠征。近代装備のフランス軍は在地のマムルークをカイロから追放し,上エジプトやシリアへと転戦したが,自国艦隊がアブキール湾の戦いでネルソン指揮下のイギリス艦隊に完敗。パリからの補給を断たれ,ナポレオン自身も99年隠密裏に帰国した。1801年には残ったフランス軍がイギリス軍に降伏。エジプトはオスマン帝国に返還された。
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