東郷庄(読み)とうごうのしよう

日本歴史地名大系 「東郷庄」の解説

東郷庄
とうごうのしよう

東郷池を中心とし、東郷町のほぼ全域と羽合はわい町の西部を除いた地域にあたる。正嘉二年(一二五八)一一月作成の東郷庄下地中分絵図によると、庄内の地名として馬野うまの・東小垣・西小垣・伯井田・耳江・長和田なごうた倉淵などがみえ、社寺は東郷池東岸の伯耆一宮(現東郷町の倭文神社)をはじめ、南部に志津宮・松尾まつお宮・真福寺・木谷寺・松尾社・長智宮・土海宮、北部の日本海近くに大湊おおみなと(現羽合町の湊神社)などが描かれている。東は笏賀くつか(現泊村)野方のかた(現東郷町か)、南は三朝みささ郷・竹田たけだ(現三朝町)、西は北条ほうじよう(現北条町)西さい(現倉吉市)に接し、北は西に向かう帆船三艘が描かれた日本海に及ぶ。また東郷池には船二艘が浮んでいる。

立庄の過程は不詳だが、平安時代末期に成立した「河村東郷」が庄園に転化したものとみられ、伯耆一宮経塚から出土した康和五年(一一〇三)一〇月三日銘の倭文しとり神社経筒銘に「伯耆国河村東郷」とみえる。前掲下地中分絵図の裏書には「東郷庄」とあり、同絵図は当庄領家松尾まつお(現京都市西京区)地頭の間で、下地中分が行われた時に作成されたもので、東分(東方)を地頭分、西分(西方)を領家分とし、田畑だけでなく、山林・馬野(牧場か)なども均分している。

東郷庄
とうごうのしよう

荘域は慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図にみえる東郷町・下東郷しもとうごう村の地域に比定される。承久三年(一二二一)五月一三日付関東下知状案(島津家文書)に「可令早左衛門尉惟宗忠久越前国東郷庄地頭職事」とみえ、地頭職が承久の乱の勲功の賞として惟宗忠久に給付されている。

また建長二年(一二五〇)一一月付の九条道家惣処分状(九条家文書)にもその名がみえ、同国坂井郡河和田かわだ新庄(現坂井町)などとともに、「佐々木女房譲進所々」として一括され、前摂政一条実経に処分されている。また、このようにして一条家領となった当庄は、年代は不明ながら、その三分の一が一条家から東福とうふく(現京都市東山区)に寄進されたらしく、貞和三年(一三四七)七月付の東福寺領諸庄園目録(同寺文書)に「一越前国東郷庄三分壱事在一条殿御寄進状」とあることによって知られる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報