松山河岸(読み)まつやまかし

日本歴史地名大系 「松山河岸」の解説

松山河岸
まつやまかし

[現在地名]高梁市川端町・本町下町

松山川(現高梁川)の左岸、松山城下の川端かわばた丁・ほん町・しも町にあった川湊。松山川の舟運は古くから行われていたが、河口から松山までの高瀬舟船路が開かれたのは天文年中(一五三二―五五)といわれる(正徳二年「八田部村古跡万覚書記」吉備郡史)。江戸時代初頭の小堀作助(政一、遠州)支配時代には哲多てつた井高いたか(現新見市)まで船路が通じていた。その頃には松山と井高に鉄蔵・米蔵が置かれており、米・鉄のほか備北の紙・漆などの集荷地・積出地として重要な役割を果していた(「小堀政一書状」佐治文書など)。元和二年(一六一六)には松山城下の本町としん町が取立てられ、次いで池田長幸入部まもない同四年には下町・鍛冶かじ町も取立てられている(「松山御城主暦代記」高梁市立図書館蔵)。松山河岸の整備はこうした城下町の建設とともに進められたと考えられるが、当時の河岸の様子は明らかでない。

松山河岸の様子を知ることのできる最も古い史料は松山藩水谷勝隆時代の正保年中(一六四四―四八)に描かれたと考えられる松山城絵図(国立公文書館蔵)であるが、それによると、川端丁・本町および下町北端の松山川堤防には石垣が積まれ、所々に雁木が設けられて川湊として整備が行われており、本町裏から対岸近似ちかのり村までの川幅八〇間の松山川には渡場も設けられていた。これより先の寛永二〇年(一六四三)には、乙島おとしま玉島たましま(現倉敷市)問屋と松山の問屋の間で物資輸送の手続が定められており、玉島から松山へ物資を送るときには乙島村庄屋惣兵衛が送り手形に判を据えて松山の弓屋与七郎宛に送り、松山から玉島へ送るときには与七郎から惣兵衛へ送り手形を送付して船荷改を行い、抜荷を防いでいた(「玉島湊問屋株定書」守屋文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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