松平信庸(1) まつだいら-のぶつね
1666-1717 江戸時代前期-中期の大名。
寛文6年6月1日生まれ。松平典信(すけのぶ)の3男。兄信利(のぶとし)の跡をつぎ,延宝(えんぽう)5年丹波篠山(ささやま)藩(兵庫県)藩主松平(形原(かたのはら))家4代となる。元禄(げんろく)10年から17年間京都所司代をつとめ,正徳(しょうとく)4年老中。儒者松崎蘭谷(らんこく),和算家万尾時春(まお-ときはる)をまねき藩学の興隆につとめた。享保(きょうほう)2年5月10日死去。52歳。初名は政信(まさのぶ),のち信慈(のぶしげ)。通称は九十郎。紀伊守(きいのかみ)。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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松平信庸 (まつだいらのぶつね)
生年月日:1666年6月1日
江戸時代中期の老中
1717年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の松平信庸の言及
【篠山藩】より
…山間の盆地にあるため米や茶以外の産業に恵まれず,西宮,伊丹などへ杜氏(とうじ)として季節的に出稼に行く〈百日奉公〉が盛んになったが,藩は労働力の移動を規制し1710年(宝永7)以来何回も禁止令を出している。1692年(元禄5)松平(形原)信庸は伊藤仁斎の弟子松崎蘭谷を登用して治績をあげた。1751年(宝暦1)には青山忠朝が漢学者関文平を招き,嗣子忠高は66年(明和3)藩校振徳堂を創設した。…
※「松平信庸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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