松本英子(読み)マツモト エイコ

20世紀日本人名事典 「松本英子」の解説

松本 英子
マツモト エイコ

明治〜昭和期のジャーナリスト,評論家



生年
慶応2年3月18日(1866年)

没年
昭和3(1928)年4月23日

出生地
下総国望陀郡茅野村(千葉県木更津市)

本名
永井 ゑい子(ナガイ エイコ)

旧姓(旧名)
松本 ゑい子(マツモト エイコ)

別名
別名=松本 栄子,家永 ゑい子,筆名=みどり子

学歴〔年〕
女子商業師範学校(お茶の水女子大学の前身)〔明治23年〕卒

経歴
津田仙の三田救世学校(青山学院大学の前身)で学び18歳で同校の教師に。明治19年高等師範学校女子部(女子高等師範学校 現・お茶の水女子大学)に入学。23年学業終了後、賛美歌の日本語訳と編纂に参加、また華族女学校などの教壇にも立つ。結婚、出産、離婚と体験したあと、34年島田三郎社主の毎日新聞社(現在の毎日新聞とは別)に入社。足尾鉱毒事件の連載を担当し、同年11月21日からペンネーム“みどり子”で「鉱毒地の惨状」と題して掲載。35年3月23日付で中断したが、この連載は、足尾鉱毒の現場で被害者から直接に聞いた窮状を読者に伝え、その後の救済運動や田中正造の“直訴”(34年12月)にも大きな影響を与えた。35年渡米、現地邦人の永井元と再婚後もスタンフォード大学などで勉強をつづけ、第一次大戦中は米国内各紙を舞台に非戦の論陣をはった。没後「永井ゑい子詩文」が刊行された。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「松本英子」の解説

松本英子

没年:昭和3.4.23(1928)
生年:慶応2.3.18(1866.5.2)
明治大正期のジャーナリスト。上総国望陀郡(千葉県木更津市)の農民松本貞樹とふさ次女。家族と共に上京して三田救世学校(築地海岸女学校)に入学しキリスト教博愛主義,人類同胞主義を身につけた。英語が堪能で賛美歌の翻訳をしたり,東京師範学校女子部(お茶の水女子大)在学中は米人教師の通訳を勤めたりしている。華族女学校(学習院)教師を経て毎日新聞社に入社。明治34(1901)年11月より59回にわたり足尾銅山鉱毒事件について惨状を訴えた。35年渡米し39年永井元 と結婚。死の直前まで『在米婦人新報』など数種類の新聞に「無戦」の詩や文章を発表,人類愛を訴え続けた。著書に『鉱毒地の惨状』がある。<参考文献>永井元編『永井えい子詩文集』,府馬清『松本英子の生涯』

(吉沢千恵子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「松本英子」の解説

松本英子 まつもと-えいこ

1866-1928 明治-昭和時代前期のジャーナリスト。
慶応2年3月18日生まれ。三田救世学校にまなび,キリスト教に入信。島田三郎の「毎日新聞」の記者となり,足尾鉱毒事件を取材・報道した。明治35年渡米し,パシフィック大などでまなび,その間に永井元(はじめ)と再婚。第一次世界大戦がはじまると,非戦をうったえた。昭和3年4月23日死去。63歳。上総(かずさ)(千葉県)出身。東京高師女子部卒。著作に「鉱毒地の惨状」。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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