日本歴史地名大系 「松枝村」の解説 松枝村まつえだむら 青森県:南津軽郡浪岡町松枝村[現在地名]浪岡町女鹿沢(めがさわ) 平野(ひらの)東を浪岡川が流れ、西と北は梵珠(ぼんじゆ)山系から延びる丘陵で、藩政期には北の稜線を十三(じゆうさん)(現北津軽郡市浦村)への街道が通じていた。稜線の西側に新(しん)溜池・長(なが)溜池・六郎(ろくろう)溜池・葦(よし)溜池が並び、村の南に笊(ざる)溜池がある。東は目鹿沢(めがさわ)村、西は銀(しろがね)村に接する。天和元年(一六八一)増館組の代官所が置かれた。代官所跡は現在法領宮となっている。天和四年の書上帳の絵図にみえる備後地子新田を含んだ本女鹿沢地子新田の発展した村で、「青森県租税誌」では旧称本目鹿沢村が改称したとある。 松枝村まつえだむら 佐賀県:三養基郡三根町松枝村[現在地名]三根町大字東津(ひがしづ)字松枝三根郡の最南にあり、南の切通(きりどおし)川が筑後国との境をなしている。経塚という貝塚があり、弥生時代中・後期の貝塚線に位置し、低湿地で堀が四通する。かつては水害激甚地。正保絵図に村名がみえる。佐賀藩の藩政期には白石鍋島家の私領で、地米(年貢)五二七石(嘉永六年写の大小配分石高帳)。旧村社の八幡神社は集落から離れて北方田園中に鎮座する。祭神は応神天皇・神功皇后・菅原道真。当社は宇佐(うさ)八幡宮と称し、弘仁年間(八一〇―八二四)豊後の宇佐八幡宮(現大分県宇佐市)の分霊を勧請したもので、かつては神幸祭に豊後宇佐から五〇人余の供奉人が来た。 松枝村まつがえむら 島根県:出雲市松枝村[現在地名]出雲市高松町(たかまつちよう)神戸(かんど)川右岸にあり、東は白枝(しろえだ)村、北は松寄下(まつよりしも)村。明暦元年(一六五五)古志(こし)村から分村して成立したと伝える。元禄十年出雲国郷帳では高一千四三八石余、寛文四年(一六六四)の本田高一千四三四石余・新田高一石余。「雲陽大数録」に松ヶ枝とあり、高一千二八〇石。宝暦四年(一七五四)の神門郡北方万指出帳(比布智神社文書)では東西一二町三二間・南北八町四二間、田七〇町七反・畑一六町九反、家数九八・人数五一三、牛二一・馬四、紺屋一・大工一と記す。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by