日本大百科全書(ニッポニカ) 「柄谷行人」の意味・わかりやすい解説
柄谷行人
からたにこうじん
(1941― )
文芸評論家。兵庫県尼崎市生まれ。本名柄谷善男(よしお)。1965年(昭和40)東京大学経済学部卒業後、同大学大学院人文科学研究科英文学専攻、67年修士課程修了。大学院在籍中に『東京大学新聞』の五月祭賞に応募し、66年に「思想はいかに可能か」が、67年には「新しい哲学」がそれぞれ佳作になる。69年には夏目漱石の小説を個人の実存の問題として読み替えた「〈意識〉と〈自然〉――漱石試論」によって、『群像』新人文学賞を評論部門で受賞する。小説部門の受賞者は李恢成。選考委員は、江藤淳、大江健三郎、野間宏、安岡章太郎。選評は、江藤淳による「幾多先人の業績を利用しているが、利用の仕方に公正を欠き、出典を明確にせずに甘ったれているところがある。したがって氏の漱石像はかならずしも明瞭なイメージを結ばず、ときどき漱石を論じているのかキエルケゴールを論じているのか、どっちを証明するためにどっちを使っているのかわからなくなる」という評をはじめとしておおむね辛口であった。その後、存在することと意識との亀裂をモチーフに、小林秀雄、吉本隆明、江藤淳、古井由吉らのテキストについて考察をまとめた第一評論集『畏怖する人間』(1972)を刊行、『群像』新人賞受賞作も大幅に加筆、訂正され収録。73年、連合赤軍事件に触発されて書いた「マクベス論」を『文芸』3月号に発表。同論文を収録した『意味という病』を75年に刊行。同年法政大学教授。
75年から76年末まで客員教授としてエール大学で日本文学史を教える。その時の経験を契機として『日本近代文学の起源』(1980)が書かれる。そこでは個人の「内面」というような普遍的な概念が、じつは「言文一致運動」やキリスト教的な「告白」という制度的な装置によって構成されたものである、というような遡行的な批判が展開されている。
78年には『資本論』の価値形態論を構造主義的に読み替えていった『マルクスその可能性の中心』(亀井勝一郎賞受賞)を発表。その後「形式化」の諸問題にとりくみ、『隠喩としての建築』(1983)、『内省と遡行』(1985)というような、極度に抽象的な思考を展開する。それらの著作において試みられていることは、古典経済学や言語学、数学基礎論といった「体系」の「外部」を実定的(positive)に語ることを禁じ、それらの体系化を極限までおし進めることによって体系自身の矛盾、非一貫性につきあたり、その結果として「外部」をパフォーマティブに演じるという作業であった。
その後『群像』に「探求」の連載を開始する。こちらでは、「教える―学ぶ」「売る―買う」といったパフォーマティブな次元そのものに視点を移している。これは後に柄谷行人の「転回」として語られることになる。『探求Ⅰ』は86年に、『探求Ⅱ』は88年に刊行された。
永山則夫死刑囚の入会申請拒否問題に際して、90年(平成2)日本文芸家協会を脱退。91年、湾岸戦争への日本の加担に反対する声明に参加する。
88年から『季刊思潮』の編集同人として、91年からは『批評空間』の編集委員として、雑誌の発刊にも関わる。98年には『群像』で「トランスクリティーク――カントとマルクス」の連載を開始する。連載終了後NAM(New Associationist Movement)を結成し、資本主義への対抗運動を始める。連載原稿に大幅な加筆と訂正を加えた『トランスクリティーク――カントとマルクス』が2001年に刊行される。97年に近畿大学特任教授に就任。2002年同大学国際人文科学研究所初代所長。その他の著作としては『反文学論』(1979)、『批評とポストモダン』(1985)、『言葉と悲劇』(1988)、『終焉をめぐって』(1990)、『ヒューモアとしての唯物論』(1993)、『〈戦前〉の思考』(1994)、『坂口安吾と中上健次』(1996)などがあげられる。
[池田雄一]
『『坂口安吾と中上健次』(1996・太田出版)』▽『『トランスクリティーク――カントとマルクス』(2001・批評空間)』▽『『柄谷行人初期論文集』(2002・批評空間)』▽『『畏怖する人間』『意味という病』『日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫)』▽『『マルクスその可能性の中心』『隠喩としての建築』『内省と遡行』『探求Ⅰ』『探求Ⅱ』『反文学論』『言葉と悲劇』『終焉をめぐって』『ヒューモアとしての唯物論』『〈戦前〉の思考』(講談社学術文庫)』▽『『批評とポストモダン』(福武文庫)』▽『『国文学』特集「柄谷行人――闘争する批評」(1988・学燈社)』▽『『国文学解釈と鑑賞』別冊「柄谷行人」(1995・学燈社)』