小説家。大正9年5月30日高知市に生まれる。陸軍獣医であった父の勤務地を転々し、朝鮮の京城で小学校に入学後も弘前(ひろさき)、東京・青山と転校が続いた。浪人3年後、慶応義塾大学文学部予科に入学、在学中の1944年(昭和19)応召、中ソ国境に近い孫呉(そんご)に行くが胸部疾患のため入院し、戦死を免れる。戦後は脊椎(せきつい)カリエスに苦しみながら小説を書き、『三田(みた)文学』に『ガラスの靴』(1951)などを発表、1953年『悪い仲間』『陰気な愉(たの)しみ』により芥川(あくたがわ)賞を受賞。三浦朱門(しゅもん)、吉行淳之介(よしゆきじゅんのすけ)、小島信夫(のぶお)、近藤啓太郎、服部達(はっとりたつ)、遠藤周作らと交わり、ともに「第三の新人」とよばれた。「第三の新人」の文学は小市民的、私小説的で思想性がないなどといわれた。母の死から発想した『海辺(かいへん)の光景』(1959。芸術選奨受賞)を代表とする安岡の初期の作品も私小説的であるとされる。『青葉しげれる』(1958)などの順太郎ものには戦中の暗い青春が描かれ、『家族団欒(だんらん)図』(1961)などでは父が題材となっている。
1960年から翌年にかけて約半年間アメリカ南部に留学、この体験から生まれたエッセイ集『アメリカ感情旅行』(1962)あたりからエッセイの面でも活躍が多くなり、『志賀直哉(なおや)私論』(1968)などの文学論のほか、社会的発言も積極的になった。1970年代からは、『走れトマホーク』(1973)、『放屁(ほうひ)抄』(1979)などの自在な短編を書くとともに『私説聊斎志異(りょうさいしい)』(1973~1974)ではエッセイとロマンを融合させた作風を示し、長編『流離譚(りゅうりたん)』(1976~1981。日本文学大賞受賞)では、幕末の安岡家の人々を中心にした歴史小説に、調べて書く方法を結実させた。エッセイ『僕の昭和史』(1979~1988)は安岡個人の自伝であるだけでなく、戦中戦後の生きた時代史としても貴重である。戦後派の後を受けて過小評価のなかで出発したが、その後の大衆社会状況下において、柔軟ななかに戦中世代の強さを貫いた。1976年芸術院賞を受賞、同年芸術院会員。2001年(平成13)文化功労者。
[鳥居邦朗]
『『安岡章太郎集』全10巻(1986~1988・岩波書店)』▽『『僕の昭和史』全3巻(1979~1988・講談社)』
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(2013-1-31)
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