柳川村
やながわむら
[現在地名]彦根市柳川町
薩摩村の西に位置し、琵琶湖に面する。来迎川の河口部である。天正一九年(一五九一)五月の愛知郡蔵入目録(芦浦観音寺文書)に「薩摩柳川内」として高が記され、慶長高辻帳でも薩摩村と一括して高付されている(→薩摩村)。寛永石高帳に村名がみえ高九九石余。江戸時代を通じて彦根藩領。元禄八年大洞弁天寄進帳によると人数三九〇、うち寺社方六、家数六四。中世以来の柳川湊があり、また朝鮮人街道と中山道を結ぶ通称柳川街道の起点であったため商業活動が盛んであった。彼らは柳川商人とよばれ薩摩商人とともに両浜商人と称された。湊には慶長六年(一六〇一)の調べで
船二三艘があったが(芦浦観音寺文書)、彦根藩は松原・米原・長浜の三湊を重点的に保護育成したため、江戸時代にはしだいにさびれ、年貢米回漕と漁港としてのみ機能した。これは柳川湊が落込み湊ともよばれるように、来迎川の川尻が入江となって湖に連なったもので、川から運ばれる土砂で遠浅となり、大型船が入れなかったことも原因していた。しかし入江沿いに柳川商人田附家の船着場があり、倉庫も置かれた。明治に入り田附家は湊に総長二八間、上部幅二間の防波堤と、常夜灯を新築し、太湖汽船会社の船の発着も可能となり活気を取戻したが、その後鉄道輸送に押されて漁港に戻った(「愛智郡志」など)。
柳川村
やながわむら
[現在地名]秦野市柳川
足柄上郡に属し、北は三廻部村、南と東は菖蒲村、西は八沢村、弥勒寺村(現松田町)に接する。周辺が小山に囲まれて小盆地を呈する。小田原衆所領役帳に遠山藤六「六拾貫弐百八拾七文 西郡菖蒲・柳川」とある。永禄七年(一五六四)八月一六日の北条家朱印状(県史三)には、遠山惣九郎が知行する「柳川之藪」での御用以外の伐取りを禁止している。
天正一八年(一五九〇)小田原藩領、慶長一九年(一六一四)幕府直轄領、貞享三年(一六八六)小田原藩領、元禄一一年(一六九八)荻野山中藩領、宝永五年(一七〇八)幕府直轄領、文政一二年(一八二九)小田原藩領。
柳川村
やながわむら
[現在地名]鰍沢町柳川
富士川の支流大柳川の中流域、やや盆地状を示す地帯と河岸段丘上に位置し、東は二〇町で箱原村、南は山道二〇町余で大塩村(現中富町)。地名は「本村大柳川ノ中央ニ在リ柳川ヲ以テ村名トス」とある(甲斐国志)。慶長古高帳に村名がみえ、高六五石余、幕府領。享保二〇年(一七三五)の田方は肥やし一反に青草四〇駄から五〇駄まで、畑方一反に馬草肥三〇駄から四〇駄とある(「村明細帳」柳川区有文書)。
柳川村
やながわむら
[現在地名]市原市柳川
月崎村の南西に位置する。月崎村枝郷。文禄三年(一五九四)六月検地があったとされる(市原郡誌)。宝永四年(一七〇七)より上野前橋藩領(「酒井忠挙領知目録」酒井家文書)。元禄郷帳では高八六石余。延享三年(一七四六)の黒田直純領知目録(久留里藩制一班)に村名がみえ、久留里藩領として幕末に至る。
柳川村
やなぎかわむら
[現在地名]福岡町木舟
木舟村の西の平坦地に立地。北部を旧北陸街道(中田道)が通る。年未詳の室町院領目録(八代恒治氏旧蔵文書)に、新御領として越中国「柳川村」とみえる。慶長一七年(一六一二)前田利常は「柳井河村」に山銭を申付けている(杉野家文書)。正保郷帳では高一七五石余、田方一一町七反余。寛文三年(一六六三)の川西家高付帳(川合家文書)では役家数四。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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