摩村(読み)さつまむら

日本歴史地名大系 「摩村」の解説

摩村
さつまむら

[現在地名]彦根市薩摩町

石寺いしでら村の西、琵琶湖岸に位置し、西は柳川やながわ村に続く。「愛智郡志」は、地名の由来は古代薩摩隼人が移住してきたことによるものかと推定している。永正一五年(一五一八)三月「さつま」は二〇〇文を堅田居初家に納めているが(居初文書)、これは網漁に対する課役とみられ、古くからの漁業集落であったと考えられる。また湖上交通の要所に位置して早くから商業が発達、八坂商人などとともに五個商人として海津かいづ(現高島郡マキノ町)塩津しおつ(現伊香郡西浅井町)を経て越前敦賀津に、また今津いまづ(現高島郡今津町)から九里半街道で若狭小浜津に往反して相物(海産物)を商った(神崎郡五個荘町の→小幡郷・小幡位田。享禄二年(一五二九)頃の五個商人申状案(今堀日吉神社文書)や同年七月三日の守護奉行人連署奉書案(同文書)からその活動の一端が知られ、申状案には「小幡・薩广の商人のあい物を野々川衆買取、市売を仕候」とある。天文四年(一五三五)二月六角定頼は、浅井氏と抗争していた京極氏支援のため江北への出兵を決め、武器・食糧や兵員輸送のため浦々から船を徴発、薩摩浦では二艘の船に六人の水手を出し、四日間軍務に従事した(「長命寺結解」長命寺文書)


摩村
つくまむら

[現在地名]米原朝妻筑摩あさづまちくま

朝妻村枝郷中島なかじま村の南に位置し、西は琵琶湖に面し、南には入江いりえ内湖(筑摩江)が広がる。筑摩の古訓はツクマで、近代の朝妻筑摩村の訓はアサヅマツクマ(明治一八年「地名索引」)。古代律令制下では坂田郡朝妻郷(和名抄)に含まれたとみられ、平安時代には御厨が置かれた。中世には古代条里の名称を継承する筑摩十六条つくまじゆうろくじよう(郷)に属したようである。慶長高辻帳では朝妻村に含まれていたが、寛永石高帳以後は一村として高付されている。同帳では高四三四石余。ただし「木間攫」には朝妻村の枝郷とある。漁業が盛んで数五九を数え(川村文書)、また大網漁も行い、運上一〇〇匁を課せられていた(坂田郡志)


摩村
さつまむら

[現在地名]高取町大字薩摩

吉備きび川北岸に所在。南は田井たいしよう村。文禄四年(一五九五)の検地の村高三一三石。検地奉行石田正澄。領主は沢源六。慶長郷帳には「さつま村」とあり、江戸時代は高取藩領。地方蔵方寺尾勤録に「慶長五六年之頃松山村より惣右衛門と申もの今之大庄屋屋敷江出、其後清助、弥助、佐助と申者段々家出数増候由、然共古来薩摩村と申村名有之、人家者無之候へ共、検地之節薩摩村分別検地有之候と相見へ帳面有之、右検地之地主者不残他村之もの也、外七軒樋之口分ハ元(禄)三庚午年□□建之、内東之端一軒者吉備村領也」とある。


摩村
つかまむら

[現在地名]松本市筑摩つかま

松本城下町の外郭にある庄内しようない組の一村。東西に流れるすすき川の南にある村である。「和名抄」にある信濃国「筑摩つかま郡」、「日本書紀」天武天皇一四年にある「束間つかま温湯」がみえるが、古代からの呼称「ツカマ」を伝えているのはこの地のみである。

鎮座の神として祀られている筑摩八幡宮の名は中世以後しばしば史書に名をとどめているが、もとは筑摩にいます神として祀られていたものらしく別に筑摩権現の社が、境内に祀られている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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