栗崎村(読み)くりざきむら

日本歴史地名大系 「栗崎村」の解説

栗崎村
くりざきむら

[現在地名]本庄市栗崎

浅見山あざみやま(大久保山)丘陵台地を開析する沖積低地および集落が立地する微高地にまたがる村。北東流する小山こやま川の南岸は水田地帯、西部は丘陵となる。東は榛沢はんざわ郡榛沢村(現岡部町)、南は小茂田こもだ(現美里町)、西は下浅見村(現児玉町)、北は東から北堀きたぼり村・東富田ひがしとみだ村・四方田しほうでん村に接し、小茂田村との境界は古代の条里線上にあたる。栃木県日光市輪王りんのう寺が所蔵する応永三年(一三九六)一〇月一八日の大般若経巻四四七奥書に、「於西本庄栗崎有勝寺書写了」とある。天正八年(一五八〇)一二月一日、鉢形はちがた(現寄居町)城主北条氏邦は長谷部備前守に上野の武田方への塩荷を押えることを命じているが、その範囲のなかに栗崎が含まれている(「北条氏邦印判状」長谷部文書)


栗崎村
くりざきむら

[現在地名]常澄村栗崎

東茨城台地の北側にあり、村内を水戸から鹿島への街道が通る。東は東前とうまえ村。縄文時代の栗崎遺跡、弥生時代の芳賀はが遺跡、古墳時代の栗崎北くりざききた古墳・栗崎古墳群があり、芳賀遺跡からは中世の埋蔵銭も発見された。「和名抄」の那賀なか郡にみえる芳賀郷の地といわれ、「常陸誌料郡郷考」には「今茨城郡栗崎村鎮守を芳賀明神と称するハ是本郷にして明神ハ其大宮なるへし」と記される。暦応三年(一三四〇)の恒富村公田注文写(吉田薬王院文書)に「栗崎 公田七町五段三百歩」とみえ、また石川氏系図(「新編常陸国誌」所収)によると石川家幹の九子宗幹が栗崎氏を称し居住した。


栗崎村
くりざきむら

[現在地名]宇土市栗崎くりさき

東は伊牟田いむた村、西は神山こうやま村、北は馬場ばば村、南は打越うちごし村に接し、東は平坦で西・南・北は高低のある地形。村の中央に居屋敷いやしき、東に下竹しもたけ、南東に上竹うえたけ、南西に上徳平じようとくびら、西に城越じようのこしなどの字地がみえる(郡村誌)。永禄二年(一五五九)の佐牟田某知行坪付(佐無田文書)に「くりさき 一所 水田 二反」とあるがこの地をさすか不明。慶長国絵図には村名がみえ、近世は郡浦手永に属した。正保郷帳では田方三二二石八斗余・畠方五三石一斗余。天保八年(一八三七)の郡浦手永略手鑑によると、竈数四六・人数二五四・役男七〇、本方三六五石二斗余、田一九町四反五畝余・畑五町五反五畝余、諸開一町二反五畝余、永荒畑一反四畝余、また宇土知行所分は高九一石三斗余、田四町八反六畝余・畑一町三反八畝・請藪一畝余。


栗崎村
くりざきむら

[現在地名]茨城町南栗崎みなみくりざき

涸沼ひぬま川の左岸に位置し、東は野曾のそ村。中世は宍戸氏の支配下にあった。慶長七年(一六〇二)秋田氏領となったことを示す御知行之覚(秋田家文書)に栗崎村二二六・一二三石とあるのは当地か(現常澄村にも栗崎村があったので不明)。江戸時代は天領旗本領で、元禄郷帳に「栗崎村」とみえる。


栗崎村
くりさきむら

[現在地名]高崎市栗崎町

井野いの川下流の右岸に広がる沖積地にあり、西は中里なかざと村・柴崎しばさき村。永禄一〇年(一五六七)五月五日付武田家朱印状(写、上州瀬下氏由緒書)で栗崎の二貫文が瀬下豊後守に宛行われている。群馬郡に属し、「寛文朱印留」に村名がみえ高崎藩領。寛文郷帳では田方二四七石余・畑方一二六石余。江戸後期の御改革組合村高帳では同藩領で家数四六。


栗崎村
くりざきむら

[現在地名]砥用町栗崎

柑子野こうしの村の南に位置し、東は桑木野くわぎの村・内山うちやま村、南は久立くだて村、西はきた村などに接する。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると高一〇六石余、うち田方二二石六斗余・畠方八三石四斗余。砥用手永に属した。明治九年(一八七六)柑子野村を合併した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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