桂瀬村(読み)かつらせむら

日本歴史地名大系 「桂瀬村」の解説

桂瀬村
かつらせむら

[現在地名]森吉町桂瀬

北流する阿仁あに右岸、流路が西に向きを変える辺りに位置する。対岸阿仁街道が通る。天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「弐百六拾三石一斗七升弐合 □信村 桂瀬村」とある。戦国期を通じ嘉成氏領であったが、のち安東(秋田)氏が包摂。

享保一五年(一七三〇)戸数は四〇軒で、枝郷は槇木沢まきさわ村・上羽立かみはだち村の二ヵ村。上羽立村は寛文(一六六一―七三)の頃、小又こまた村の百姓が移り開いたという。また槇木沢村には「今下モ羽立といふ」と注がある(六郡郡邑記)


桂瀬村
かつらせむら

[現在地名]松阪市桂瀬町

山室やまむろ村の西、丹生寺にゆうでら村の南にあたり坂内さかない川の右岸にある。永禄一二年(一五六九)織田信長大河内おかわち攻めに際し織田方の陣所になっており、「勢州軍記」には「信長勢陣四方之山々。本陣ハ東ノ方桂瀬山也」とある。近世は和歌山藩松坂領。文禄五年(一五九六)の桂瀬村小打帳(徳川林政史蔵)によれば田畑合二四町二反四畝八歩とあり、大部分が田方になっている。寛永一一年(一六三四)・元禄一〇年(一六九七)・享保七年(一七二二)に新田畑検地が行われた(各検地帳は同蔵)


桂瀬村
かつらせむら

[現在地名]美里町桂瀬

貴志きし川の両岸にまたがるが、集落は北岸にある。北西高畑たかはた村、東南今西いまにし村で、北から高畑村を通って貴志川に入る桂川の合流点にあるため桂瀬村という(続風土記)。もとは高畑村と一村であったという。桂川の名は康治二年(一一四三)五月二五日付の神野真国庄絵図(神護寺蔵)にすでに「桂河」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android