高畑村(読み)たかはたむら

日本歴史地名大系 「高畑村」の解説

高畑村
たかはたむら

[現在地名]高畠町高畠

米沢盆地の東端、屋代やしろ川の渓口部に位置し、二井宿にいじゆく峠越の二井宿街道が通る。中世から江戸中期までは高畠と記すことが多く、タカハタケともよんだ。当地北部大立おおだち山山麓に中石器時代から古墳時代にかけての大立洞窟遺跡、屋代川右岸の山山麓に羽山古墳があり、字立林たてばやしの古墳から和同開珎が発見されている。また羽山山麓の一杯清水いつぱいしみずに永仁七年(一二九九)銘の羽山三面板碑が建つ。古代には置賜郡屋代郷(和名抄)に含まれていたとみられ、平安時代後期からは同郷が庄園化した屋代庄に属した。同庄の地頭職は長く大江長井氏に相伝されたが、南北朝末期頃からは伊達氏の勢力下に入り、戦国末までその状況が続いた。当地は出羽・陸奥交通の要にあり、高畠城は、伊達氏の置賜侵攻後は同氏の置賜支配の拠点として利用された。

伊達氏天文の乱中の天文一六年(一五四七)閏七月二〇日、伊達晴宗は鎌田四郎兵衛に宛てた書状で、味方は高畠から新宿にいじゆくまでを制圧、敵方伊達稙宗勢は片岸かたきし要害(現南陽市)に退いたこと、近々みや(現長井市)へ兵を進めることを伝えている(伊達正統世次考)。同二二年の晴宗公采地下賜録によれば、小簗川尾張守は旧領に加えて加恩として多くの所領を与えられ、守護不入権も認められた。旧領のうちには「たかはたけのたてめくりのやしき、并まちやしき」が含まれているが、「たゝ今人をさしをかれ候ハかり」と記されている。この時、太宰内匠も「高畠の内、黒江ミのゝ介分、せきおもて一間」を与えられ、佐竹越中は同じく高畠のうち「ふろてん」「たひ在家」「ねきし在家」を貰った。「ねきし在家」はのちの根岸ねぎし村域に所在したものであろう。なお天文三年四月一〇日の浜田常陸守宛伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)に「長井屋代之庄一迫之郷内、こうり山修理在家之内、石森くねはな三百苅」とみえる石森は、当地の小字いわもりに比定され、前掲下賜録にみえ、浜田式部が与えられた「きたかたの内、はやしさき在け」も当地の林崎はやしざきに比定される。


高畑村
たかはたむら

[現在地名]上野市高畑

寺田てらだ村の西。「宗国史」などは「高畠村」と記す。南部を服部はつとり川が西流する。川北は典型的な阿拝郡条里でいわゆる万町の沖まんちようのおきの南部にあたり、高畑の現地籍の一番地は東北部のいちつぼにあるが、この地名は条里地名に始まるものであろう。現一ノ坪は条里の八ヶ坪・九ヶ坪分の面積であるが、何条何里に属するかは決めがたい。

観応二年(一三五一)四月一九日付の東大寺雑掌弘恵申状(東大寺文書)のなかに、高畠平六の名がみえる。また暦応三年(一三四〇)四月の伊賀国南北庄々悪党事事書大概土代(東大寺未成巻文書)に「名誉大悪党高畠右衛門太郎入道持法法名持法、改号道秀」と出て、「名誉大悪党」とよばれ、伊賀一円で活躍する人物は、嘉暦三年(一三二八)の東大寺満寺衆議事書条々(三国地志)には、服部右衛門太郎入道持法の名であらわれ、服部持法は高畠持法といったことがわかる。


高畑村
たかばたけむら

[現在地名]甲府市高畑一―三丁目・相生あいおい一丁目・上石田かみいしだ二丁目・国母こくぼ一―二丁目

下石田村の東にある。あら川が北を東流したのち大きく湾曲して東側を南流する。西から南東へぬま川が流れる。永禄六年(一五六三)と推定される亥七月六日の武田信玄印判状(保坂達家文書)によると、竜王りゆうおう川除堤防備のため人足が徴用された近郷のうちに高畠が含まれる。天正一〇年(一五八二)一一月二〇日、青沼助兵衛に本領の高畠のうち定納五貫文などが安堵され(「徳川家印判状写」譜牒余録)、同年一二月三日には以清斎(市川元松)に高畠本在家三間・新在家二間、棟別諸役などが本領として安堵されている(「徳川家印判状写」記録御用所本古文書)


高畑村
たかばたけむら

[現在地名]浦和市高畑

寺山てらやま村の東に位置する。北から東は綾瀬川を境に埼玉郡笹久保ささくぼ新田・横根よこね(現岩槻市)。同川右岸の流域平野に立地し、伝右でう(悪水)が南流する。「風土記稿」によると、小田原北条氏の家人高畠三郎右衛門が小田原城落城後、当地に来て開発し、自らの家名をもって村名としたという。同家は代々名主を勤めた。後欠であるが、慶長二〇年(一六一五)の安行筋高畠村御検地帳(若谷家文書)が残る。初めは幕府領であったが、寛永六年(一六二九)に岩槻藩による検地が行われているので、これ以前に同藩領になったと思われる。同年六月の高畑村御水帳写(同文書)によると上田二町九反余・中田六町二反余・下田五町五反余・下々田三町四反余、上畑二町二反余・中畑一町一反余・下畑一町六反余・屋敷三反余で、ほかにかや野五町八反余があった。


高畑村
たかはたけむら

[現在地名]平賀町高畑

ぬか(二七一・三メートル)から北西に延びる丘尾台地にあり、西を六羽ろつぱ川が流れ、南は薬師堂やくしどう村から乳井にゆうい(ともに現弘前市)へ続き、北は吹上ふきあげ村に接する。

この辺りは鎌倉時代より乳井郷として福王ふくおう寺と極楽ごくらく寺の別当の支配下であったという。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「日照田 高畠」とあり、当時の高畑は吹上の地をさし、日照田ひてりだが近世の高畑村をさすとの説もある。正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の平賀郡に高二七四・一石、うち田方二五七・七二石とある。


高畑村
たかはたむら

[現在地名]喜連川町穂積ほづみ

沼畑ぬまはた村の東、塩那えんな丘陵山間に位置する那須郡の村。懐状に集落を形成し、関街道(福原経由)が通る。地名は沼畑村に対する。元禄郷帳に村名がみえ、高一二九石余、幕府領(幕末に至る)。天保期(一八三〇―四四)の家数六(改革組合村)。庄屋は津浦家が世襲した。明治元年(一八六八)の村鑑帳(川上豊文書)に、延宝六年(一六七八)の那須氏による検地帳があると記されるので、貞享四年(一六八七)までは那須氏領(天和元年烏山入封)、同年烏山藩廃絶により上知、幕府領となったとみられる。


高畑村
たかはたむら

[現在地名]浅井町高畑

力丸りきまる村の南西、川右岸に位置。西方に物部守屋の造成とも伝える灌漑用溜池の西にし(周囲一四五〇メートル、面積一〇・二ヘクタール)がある。地内には縄文時代の高畑遺跡がある。高畠とも記した。寛永石高帳に村名がみえ、高九二三石余で、山城淀藩領。元禄郷帳では甲斐甲府藩領。天明村高帳では三河吉田藩領。延宝五年(一六七七)の検地の際、当村は絵図に「水一通之ため」と称して瓜生うりゆう村の溜池(西池)を書きのせたが、それを根拠として溜池での草の刈取を行ったため同村に訴えられており、宝暦一一年(一七六一)には瓜生村四・当村六の比率で分水し、上野うわの村は当村の余水で灌漑することが決められた(瓜生共有文書)


高畑村
たかはたむら

[現在地名]大田区西六郷にしろくごう二―四丁目

古川ふるかわ村・町屋まちや村の南、六郷川(多摩川)湾曲部左岸の低地に立地し、東境近くを東海道が通る。東隣の八幡塚はちまんづか村に飛地がある。田園簿に村名がみえ、田方一二六石余・畑方六七石余、ほかに見取場田七反余・畑一四町三反余があり、すべて幕府領。これ以外に宝幢ほうとう院領(一一石)がある。元禄一一年(一六九八)の検地帳(森家文書)によると高二六八石余、うち田方一四町一反余・高一三六石余、畑方三五町三反余・高二五七石余、ほかに松林三ヵ所(永一五文)・萱原三畝余(野銭永一〇文)・芝原一〇町七反余(永五三八文)がある。


高畑村
たかはたむら

[現在地名]伊丹市伊丹四―五丁目・同七丁目・南町みなみちよう三丁目・東有岡ひがしありおか二―五丁目

伊丹郷町を形成する一五ヵ村の一村。外城とじよう村の南に位置し大坂道に沿う。文禄伊丹之図には村名の記載はないが町並は描かれている。寛文九年(一六六九)伊丹郷町絵図に村名がみえる。領主の変遷は同村に同じ。石高は初め伊丹町(村)に含まれているが、延宝五年(一六七七)の巡見絵図(篠木家蔵)、天和三年(一六八三)頃の摂津国御料私領村高帳では高二九石余。


高畑村
たかばたけむら

[現在地名]東淀川区淡路あわじ三―四丁目・東淡路ひがしあわじ四丁目・西淡路にしあわじ三―六丁目、淀川区東三国ひがしみくに二丁目

増島まじま村の南にある。中島なかじま大水道が村西部を横切って南宮原みなみみやはら(現淀川区)の支郷宮崎みやざきに至る。集落は村の北部中央辺りを中心とするが、柴島くにじま村・南宮原村との境界付近にも東寺・はらなどの集落がある。平安時代以降淡路庄の地。村の成立、江戸時代の領主の変遷は増島村の大部分に同じ。村高は享保二〇年(一七三五)摂河泉石高調によると三七三石余(除地三斗余を含む)


高畑村
たかはたむら

[現在地名]養老町三神町みかみちよう

大塚おおつか村の西に位置し、村域は牧田まきだ川の分流内の中島にあった。南西対岸は五日市いつかいち村。年未詳二月一七日付の木下秀吉折紙(大橋文書)に高畠とみえ、当地を知行する大橋長兵衛が近江横山よこやま(現滋賀県坂田郡山東町か)に在城の時、当地で家来たちが一揆を起こしたとして木下秀吉はその糾明を求めている。また年未詳一二月二〇日付の大橋長兵衛尉宛木下秀吉折紙(同文書)によると、大橋長兵衛知行の当地のうち一千疋を丸毛兵庫頭光兼が違乱したとのことであるが、長兵衛の知行を持続するように伝えている。


高畑村
たかはたむら

[現在地名]美里町高畑

集落は主として貴志きし川の北岸にあるが、南岸にも村域が広がる。南東は桂瀬かつらせ村、西は赤木あかぎ村。北は隠地おんじ山に及び、その南側を流れる桂川とよぶ小流に沿う地に人家がある。桂川の東に桂河かつらがわ明神社がある。摂社を合せて五社ごしや明神といい、神野こうの庄のうち貴志川上流五村の総氏神で、熊野権現を祀る。貴志川北岸を高野街道が通り、道に沿って八町地蔵はつちようじぞう堂がある。年号不詳であるが南北朝時代と思われる名主番頭連署状(又続宝簡集)に近くの津川つがわ・赤木などとともに「高畑村」が記され、番頭宗真が署名している。

近世も高野山領で、「続風土記」は村高八六石余、家数二三、人数九〇、小祠五社(すはらの森・妙見森など)を記す。


高畑村
たかはたむら

[現在地名]富加町高畑

津保つぼ川左岸で詰田つめた川を挟んだ河岸段丘の上と下の平坦地に位置。東は羽生はにゆう村、南は東田原ひがしたわら(現関市)、西は肥田瀬ひだせ(現同上)。関ヶ原の合戦後、揖斐いび(現揖斐郡揖斐川町)城主西尾豊後守光教の所領となる。元和九年(一六二三)二代目嘉教が狂死し、幕府領となった。慶長郷帳では七四石余、正保郷帳では田方二八石余・畑方四二石余・野年貢四石。


高畑村
たかはたけむら

[現在地名]久留米市善導寺町木塚ぜんどうじまちきづか

古北ふるきた村の西に位置し、西は御井みい太郎原だいろばる村。屋敷地の西を津遊つゆ川が流れる(上三郡絵図)。高畠とも記す。本高は一〇七石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」に古高の記載はなく、役高一〇五石。寛政元年(一七八九)の撫斗代七斗、人数一〇一、馬九(上三郡取調手鑑)。享和二年(一八〇二)の春免高帳では高一一五石。文化四年(一八〇七)の畝付帳では本田三町一反余・畑田六反余・畑三町八反余・開畠二町七反余・開藪三反余・居屋敷一反余。同じ頃の本地高二八石余・物成高二二石余、開高三〇石余・物成高一〇石余(「本地開本免帳」中村家文書)


高畑村
たかはたむら

[現在地名]中川区高畑たかばた町・高畑

荒子あらこ村の西にある。村の西には荒子川(上流を惣兵衛川、中流を柳瀬川と称する)が流れ、川の流路には細長く新田地が続き中島なかしま新田へ至る。高畑村は同じ愛知郡内や海西かいさい郡にもあり、当村は荒子高畑村ともよばれた。

「塩尻」は「愛知郡一柳の庄荒子村観音寺、いにしへは今の高畠村北八田村の境にあり。本堂大門の名田圃に残り、大成礎石所々に侍る。(中略)其境地(一柳庄)高き畠の地を後人高畑と称し云々」と記している。寛文一一年(一六七一)の家数七八、人数四六一(寛文覚書)


高畑村
たかばたけむら

[現在地名]浜北市高畑

長上ながのかみ郡に所属。寺島てらじま村の北、天竜川右岸の氾濫原上に位置する。高畠とも記される。現愛知県西尾市の養寿ようじゆ寺が所蔵する雲版の表に応永二年(一三九五)三月一八日の紀年と「遠江相良新庄法恩庵」とみえ、裏に永正四年(一五〇七)一一月一五日付で「遠江州長上郡美園郷高畠村宝聚院常住也」と記されている。松平忠頼領郷村帳では高二二六石余、田八町五反余・畑一六町九反余、ほかに宝秀(住の誤記か)院領二石。江戸時代の支配領主の変遷は中条なかじよう村に同じ。正保郷帳では畑方二二六石余、法住ほうじゆう(現曹洞宗)領二石。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳では高二二六石余、家数三八。


高畑村
たかばたけむら

[現在地名]河東町谷沢たにさわ

北東は京手きようで村、南東は郡山新こおりやましん村で、村西をせせなぎ川が南から西へ流れる。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に高畠とあり、高二六二石余。元和五年(一六一九)の蒲生氏知行方目録(新編会津風土記)によれば、高畠村の七石六斗などが若松融通ゆつう寺に与えられている。寛永二〇年(一六四三)の保科正之寄進状(八角神社文書)では若松八角やすみ神社別当亀福きふく院に高畑村のうち五〇石が寄進されている。


高畑村
たかばたけむら

[現在地名]深谷市高畑

北縁を東流する小山こやま川右岸の沖積低地にあり、東は上敷免じようしきめん村、南は戸森ともり村。深谷領に所属(風土記稿)。村の中ほどを備前渠びぜんきよ用水が東流、矢島やじま堰より取水している。建久年間(一一九〇―九九)頃は猪俣党岡部六弥太忠澄の所領といわれ、六弥太の寄進地と伝える岡部田おかべだという小字もある。地内の鷲宮わしのみや神社は縁起によると埼玉郡鷲宮神社(現鷲宮町)の分祀といい、岡部六弥太が鬼門除けの祈願所として再興したと伝える。田園簿によると田方一五〇石余・畑方三一九石余、幕府領。


高畑村
たかはたむら

[現在地名]加古川市平岡町高畑ひらおかちようたかはた

山之上やまのうえ村の北東に位置する。中央部を東西に山陽道が通る。慶長国絵図に「高畠村」とみえる。正保郷帳では田方二七六石余・畑方二六石余。元文二年(一七三七)村明細帳(加古川市蔵)では高三三四石余・新田畑高九九石余、家数四三・人数二〇六(うち大工二)、鉄砲三、寛永一七年(一六四〇)から一里継所が置かれた。寛延三年(一七五〇)の村明細帳(同市蔵)によると人数二一二、医者一・大工二、牛一四・馬一、郷蔵一、大歳おおとし大明神・山神大明神、薬師堂・曹洞宗長松ちようしよう寺。


高畑村
たかばたけむら

[現在地名]中条町高畑

東をほり川が流れ、北を胎内たいない川が東から流れ、砂崩すなくずれ付近で湾曲して北へ流れを変える。東は宮瀬みやぜ村、西は砂丘を隔てて笹口浜ささぐちはま、南は山王さんのう村に接する。正保国絵図に「高畑村 二百石余」と記される。元禄郷帳に村名がみえる。初め村上藩領に属し、宝永六年(一七〇九)幕府領、翌七年村上藩領に復し、のち幕府領となる。宝暦一一年(一七六一)の巡見使案内帳(高橋哲也氏蔵)によれば家数七五・人数三二〇・馬一一。


高畑村
たかばたけむら

[現在地名]柿崎町高畑

北西は上小野かみおの村、東は岩手いわで村と接し、北を柿崎川が流れる。南東方、現吉川よしかわ町境に城山がある。天和三年(一六八三)の検地帳(国立史料館蔵)によれば、高一一一石余、田方は上田三町二反余・中田一町八反余・下田一町八反余・下々田四反余。畑方は上畑一反二畝余・中畑三反四畝余・下畑五畝余・山畑二反五畝余・屋敷三反一畝余。ほか漆木一五四本で一本一分とある。明和年間(一七六四―七二)と思われる山里蝋実穂村別帳(同館蔵)に山蝋実八合二勺五才・里蝋穂一一貫四〇五匁とあり、吉木よしき(現新井市)の蝋点所に納めた。


高畑村
たかばたむら

[現在地名]蘇陽町高畑

川走かわばしり川流域にあり、東は馬場ばば(現高森町)、西は小倉こくら村、北は東竹原ひがしたけばる村、南は下山しもやま村に接する。文明一六年(一四八四)八月二八日の阿蘇十二社同霜宮最花米注文(阿蘇家文書)に「一所たかはた二百文 まめ一斗」とみえ、当村の近世の小村である赤立あかたても、最花米の収納使の宿泊地となっている。近世は菅尾手永に属し、阿蘇郡南郷之図(「国誌」所収)高森たかもり(現高森町)から通じる道の終点に高畑の名がみえる。


高畑村
たかはたむら

[現在地名]加古川市志方町高畑しかたちようたかはた

細工所さいくじよ村の南、西にし川南西岸、法華山谷ほつけさんたに川の東岸に位置する。中央を北条ほうじよう(現加西市)へ至る道が通る。領主の変遷は細工所村に同じ。慶長国絵図に高畑とみえる。正保郷帳によれば田方五四三石余・畑方三五石余。一橋徳川家領村々様子大概書(一橋徳川家文書)によると田三六町一反余・高五五〇石余、畑七町三反余・高四二石余、小物成は山年貢銀・夫米、家数八六・人数三六九、農間に薪取・草刈・木綿織、百姓持林山二、米の津出しはしば村、谷川出水の節は田畑へ溢れ損害を受けるという。


高畑村
たかはたむら

[現在地名]邑智町高畑

北流していた江川が大きく蛇行して流れを南に変える地点の右岸流域に位置し、北に枝郷さいはらがある。北東は粕淵かすぶち村、対岸は野井のい村。中世には佐波さわ郷に含まれ、永正二年(一五〇五)七月一四日の赤穴郡連置文(閥閲録)には、「佐波高畑」で佐波氏の嫡子梁山を奥山周防守親父が暗殺しようとしたと記される。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によれば田方七一石余・畑方五四石余、年貢高は米三三石余・銀三九一匁、小物成は川網役一匁など、家数は本家二四・門屋一三、人数一五五。


高畑村
たかばたけむら

[現在地名]川越市府川ふかわ

福田ふくだ村の西、入間いるま川右岸低地に立地。検地は南隣の府川村と同じく慶長一一年(一六〇六)以降数度実施されたという(風土記稿)。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳に村名がみえ、高一九三石余、反別田八町二反余・畑二六町七反余、ほかに開発分高二九石余(反別田一町二反余・畑四町一反余)。元禄一五年(一七〇二)の河越御領分明細記では「府川分」の頭注で村名がみえ、高一八三石余・外高三四石余、名主は府川村名主が兼帯していた。


高畑村
たかはたむら

[現在地名]下関市大字高畑

霊鷲りようじゆ(二八八・四メートル)の南山麓に広がる山間の小村。西はふじたに村、南は前田まえだ村、北東は長府ちようふ町、北西はいちみや村と接する。長府藩領で西豊浦郡前支配に属する。「地下上申」に「高畑村」と記される。

豊浦藩明細書によれば、田畠総高は一八三石余、うち田五町余で一三七石余、畠六町余で四五石余、総家数は二四軒で、うち給人二〇軒、百姓四軒。


高畑村
たかばたけむら

[現在地名]大津市坂本本町さかもとほんまち

穴太あのう村の北、上坂本村の南にあったとみられる。「輿地志略」では高畠と記す。慶長期(一五九六―一六一五)高畑村・赤塚あかつか村のうちの三〇〇石が石工衆の穴太頭高村武兵衛・戸波弥次兵衛・戸波市助の三人に与えられたという(京都御役所向大概覚書)。寛永石高帳には村名がみえず、元禄郷帳では高二〇〇石で、戸波弥次兵衛・高村武兵衛の相給となっているが、両人とも肩書に町人と記される。


高畑村
たかはたむら

[現在地名]岡崎市高畑町

安藤あんどう川と広田こうた川に挟まれた地域に位置し、北から定国さだくに正名しような中島なかじま村と続いて高畑村となる。かつて中島郷に属し、「高畑村は中島郷より分離する」(碧海郡誌)とある。明治初年に旧額七六石六斗余・旧租二七石二斗余とあり、旧高旧領取調帳には、小笠原伊勢知行七六石六斗とある。


高畑村
たかはたむら

[現在地名]千歳村高畑

大木おおぎ村の東、大野川北岸の河岸段丘上にあり、東は柴山しばやま村。元禄見稲簿の岡領御絵図ニ出分には柴山村の内として高畑村がみえる。元禄郷帳・天保郷帳では柴山村に含まれ、「豊後国志」に高畠がみえる。安永七年(一七七八)には柴山組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)


高畑村
たかばたけむら

[現在地名]岩室村高畑

東を西にし川が北東へ流れ、北東は植野うえの新田村、南は舟越ふなこし村。慶安三年(一六五〇)頃までに開発され、元禄郷帳には舟越村枝郷として村名がみえ、高六三石八斗余。天保郷帳では二四八石二斗余と村高が増加している。旗本牧野氏領で、文久三年(一八六三)の高直し以降三根山藩領。


高畑村
たかはたむら

[現在地名]加古川市米田町平津よねだちようひらつ

平津村の南西、加古川下流西岸に位置する。旧加古川の自然堤防と思われる微高地にある。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると田方一三六石余・畑方七石余。宝暦七年(一七五七)の村明細帳(糟谷家文書)によると、田二町六反余・分米五〇石余、畑六町七反余・分米一一九石余、小物成は犬米・草藁銀・藪新開、扶持馬飼給料米一斗余、家数二二・人数九二。


高畑村
たかばたけむら

[現在地名]和島村高畑

日野浦ひのうら村の南、南は柿木かきのき(現出雲崎町)。正保国絵図には高二四〇石余で幕府領。高田藩稲葉氏のとき以後、同氏の転封に従って所属藩が変わった。


高畑村
たかばたむら

[現在地名]八開村高畑

東は江西えにし村、西は木曾川に面する小村。「徇行記」によれば、概高一六五石余のうち八九石余は藩重臣横井一門三人の給知。田は七町七反五畝余、畑は一〇町四反五畝余。「寛文覚書」に戸数二七、人数一〇一とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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