桑木村(読み)くわぎむら

日本歴史地名大系 「桑木村」の解説

桑木村
くわぎむら

[現在地名]三和町桑木

父木野ちぢきの村の西に位置する芦田あしだ郡最北端の村。北は神石郡高蓋たかふた村、西は甲奴こうぬ階見しなみ村。自然的条件は父木野・高蓋と一体性が強く、高蓋との境を西城路が通る。街道の西に開けた二つの谷を主村域とし、古くから芦田郡の穀倉地帯といわれた。村域内にかき木原きばら芸人山げいにんやま相談谷そうだんだにさる馬場ばば虎木原とらのきばらなど多くの古墳群があり、多くの須恵器と平瓦を出土した柿ノ木原窯跡(八世紀)もある。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳では高一二四石余、元禄一三年(一七〇〇)の桑木村御検地水帳(広島大学蔵)によると反別二七町余、高二七三石余。福山藩領。「備後郡村誌」によると御林三ヵ所・五五町余、野山二ヵ所・三八町余があり、「御林之内ニ柴草相願毎年苅候田地入レ来リ申候」とみえる。


桑木村
くわぎむら

[現在地名]小山町桑木

新柴あらしば村の南西箱根はこね外輪山金時きんとき(猪鼻山)の北西麓、鮎沢あゆざわ川沿岸に位置する。寛永元年(一六二四)および同四年の徳川忠長重臣村上三右衛門発給の年貢割付状(小見山家文書)では高七〇石余、同一〇年相模小田原藩領となり、天和三年(一六八三)旗本稲葉氏の知行所となる。宝永四年(一七〇七)の富士山の噴火による積砂は二尺(「亥積砂寸尺覚」室伏家文書)。翌五年幕府領となり、天明三年(一七八三)再び小田原藩領となり、同領で幕末を迎えた。元文三年(一七三八)の村鑑帳(桑木区有文書)によれば、正保四年(一六四七)の検地で田高七九石余(七町一反余)・畑高一六石余(二町六反余)となり、ほかに高外として野畑一五町七反二七歩があったという。


桑木村
くわぎむら

[現在地名]荻町桑木

肥後国との国境に接する標高六三〇メートル前後の台地上にある。岩波古典文学大系本「豊後国風土記」に「昔者、郡の東の桑木の村に桑生ひたりき。其の高さ、極めて陵く、枝も幹も直く美し。俗、直桑なほくはの村といひき」とあるが、「郡の東の桑木の村」とあるので、郡の南西部に位置する当地に比定するにはやや難がある。正保郷帳では藤原ふじばる郷に属し、畑方のみで高二七石余。享保三年(一七一八)の柏原与大庄屋・葎原与大庄屋ほか連署の御断申上覚(垣田家文書)に「葎原与桑木村小庄屋甚右衛門・同村切支丹横目太右衛門」「直入郡葎原組桑木村百姓太右衛門」がみえる。


桑木村
くわきむら

「豊後国風土記」にみえる村。同書の写本では「昔者、郡の東の垂水村に桑生えることあり。その高さ極めてたかく、枝も幹も直く美わし。くにびと直桑の村という」として、垂水村とするものが多い。しかし「太宰管内志」にみえる青柳種信の説のように、字形の近似から桑木を垂水と誤写されたものとするのが文意から考えて妥当であろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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