御殿場(読み)ごてんば

精選版 日本国語大辞典 「御殿場」の意味・読み・例文・類語

ごてん‐ば【御殿場】

[1] 〘名〙 歌舞伎・人形浄瑠璃の時代物で演じられる御殿の場面。「妹背山」四段目の入鹿御殿、「義経千本桜」四段目の吉野山御殿など。御殿。
※雑俳・柳多留‐一四五(1837)「御殿場の鼠鶉の前で化し」
[2] (元和三年(一六一七徳川家康遺体久能山から日光へ移すための仮殿を設けたところからいう) 静岡県北東部の地名富士山の南東側のふもとにある。富士山登山口の一つで、箱根を越える長尾峠道の入口にもあたり、富士箱根観光の拠点。昭和三〇年(一九五五市制

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デジタル大辞泉 「御殿場」の意味・読み・例文・類語

ごてん‐ば【御殿場】

歌舞伎人形浄瑠璃の時代物で、公卿や高貴な武士邸宅舞台とした場面。御殿の場。

ごてんば【御殿場】[地名]

静岡県北東部の市。富士山南東麓にあり、登山口の一。自衛隊東富士演習場がある。人口8.9万(2010)。

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日本歴史地名大系 「御殿場」の解説

御殿場
ごてんば

[現在地名]津市藤方 御殿場

藤方ふじかた村の遠浅砂浜海岸米津よねづ浦の通称。満潮時に棹を立てて海へ網を張っておき、潮が引いて浅くなってから網の中の魚を手網ですくったり、手づかみにする漁法楯干たてぼし漁業が行われた。楯干は立干とも建干とも書く。江戸時代には、魚を手づかみにする感触が喜ばれて、上流社会の娯楽として行われ、三代津藩主藤堂高久は寛文一二年(一六七二)六月一四日に十五所じゆうごそ(現雲出長常町)で、翌一三年三月一六日には矢野やの(現一志郡香良洲町)で楯干を見ている(「吉武次郎右衛門覚書」津市史)のをはじめ、八幡やわた浦でも行われたことが知られているが、米津浦には藩主のために小屋が建てられ、ここで楯干が行われたらしい。

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改訂新版 世界大百科事典 「御殿場」の意味・わかりやすい解説

御殿場[市] (ごてんば)

静岡県北東端,富士山東麓の市。1955年御殿場町,富士岡村,原里村,玉穂村,印野(いんの)村が合体,市制。人口8万9030(2010)。御殿場の地名は,徳川家康が造らせた御殿に由来するといわれる。古代の横走駅が置かれた地とされる。古代末から中世にかけて伊勢神宮領大沼鮎沢御厨(みくりや)の内にあり,鎌倉幕府の御家人大森氏一族が強大な勢力を誇っていた。戦国時代には今川氏の勢力圏に入り,大森氏の一族葛山氏が深沢城に拠って支配したが,今川氏滅亡後,後北条氏と武田氏の抗争の舞台となり,1571年(元亀2)深沢城は武田氏の手に落ちた。近世は1633年(寛永10)以後,一時期を除いて小田原藩領で新田の開発が盛んとなり,印野,竈(かまど)新田などが開かれた。1889年東海道本線が御殿場経由で開通,富士登山口などが開けたが,1934年の丹那トンネルの開通によって支線御殿場線となり,町の経済は登山客あるいは軍事基地に依存することになる。69年の東名高速道御殿場インターチェンジ開通後の地域の変容は大きく,農業は水田耕作中心から養鶏,養豚などの大規模畜産などへの移行が目だち,工業では,電気機械,精密機械,レコード製造など内陸型工業の進出が著しい。また富士山東麓などでは,大手観光資本による別荘,ゴルフ場などの開発も進んでいる。かつてアメリカ軍が管理した東富士演習場は,70年以降自衛隊が使用している。駒門風穴(天),印野の溶岩隧道(ずいどう)(天),御胎内高山植物園などがある。
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